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 2.
 チーフの仕事に取り掛かってから一時間と少し。チーフが俺に振った仕事っていうのは、必要なデータを取って、グラフ化する、という面倒くさいけれどそんなに複雑な仕事ではなかったから、とりあえず形にはなった。
 共用フォルダに保存して、チーフの所へと向かう。
 「おつかれさまです」
 「あ、はい?」
 「一応出来たんで……見てもらえますか」
 「ありがと」
 
 チーフの手がするするとマウスとキーボードを叩き、さっきのファイルを開く。
 「今日は期間の間違いとか、してないよね?」
 「……してません」
 そうは答えても、少しだけ不安になった。
 「んん〜、大体大丈夫かな、もうちょっとチェックするから……ちょっと待っててもらっていい?」
 「はい」
 机に戻ろうと思って、ふと思い立つ。
 「あのー」
 「何?」
 「休憩所にいてもいいですか?」
 あはは、と笑われる。
 「いいわよ。終わったら声かけるね」
 
 お許しも出たことだし、と俺は休憩所へと向かった。
 っていうかさ、そうだよな、普段はあんな感じだもんな。とりあえず仕事の先が見えたことで、ほっとしたら、頭はようやく昨日のことへと戻ってくる。
 やっぱギャップありすぎだよなぁ。昨日のあれと今日のこれ。そんなこと言ったら、きっとチーフは怒るだろうけれど。
 すきっ腹に、コーヒーが沁みた。ゆっくりと味わって飲む。それが刺激になったのか、おなかが急に空いてきた。
 
 「ちょっとっ、黒崎っ!」
 チーフが休憩所に来たのは、それからまもなくのこと。
 「はいぃっ!」
 そのチーフの口調に思わず立ち上がり、返事をした。
 「何でしょうっ!?」
 入り口でチーフが仁王立ちになっている。……けど。
 
 「ぷっ、くっ、くっ……」
 チーフが噴き出して笑いだしたのはその瞬間だった。
 
 俺は思わずその様子を眺める。
 「やだ、ごめん、おかしくて……黒崎のそれって、もう、条件反射なのね」
 どれだよー。っていうか、何笑われてるんだよ、俺。
 状況が整理できずに、俺はしばらく呆然と立ち尽くした。
 「怒らないでね、今の、言っただけ」
 え? 今のってのは、さっき入ってきたときの?
 
 「どういうことですか〜」
 思わず力が抜けた。
 「いや、やっぱりほら、黒崎を叱らないことにはさ、私も一日が終わらないと言うか」
 嫌なことを言うなぁ。
 「今日は大分頑張ってたから、いつもみたいにガミガミ言うのはやめてたんだよね。そうしたら、ストレス、溜まって、溜まって……」
 って、もしかして俺って実はサンドバッグ状態? 普段のあれは、単なる気晴らし? っていうことか?
 妙な疑惑発生。
 
 「まぁ、でもそのおかげで、私の仕事も大分進んだことだし、お昼も食べずに頑張った黒崎君にごはんをおごってあげましょう」
 えーと。あー。……ま、いっか。
 「え、あ、ありがとうございます」
 そう返事をして。
 「あ、さっきのデータ、大丈夫でした?」
 気がついた。
 
 「ばっちりおーけー」
 そう言いながら、チーフはもう出て行こうとしている。
 よかった。慌てて後を追った。他のメンバーはもうみんな帰ってて、フロアにはちらほら残っているだけだった。
 

 連れて行かれたのは、会社からそう遠くない、けれどあまり行ったことのない界隈にある小さな料理屋だった。
 「あら、志織ちゃん、いらっしゃい」
 女将らしき人が、そう言ってチーフを迎えてくれた。
 
 「まぁ、めずらしい」
 俺を見て、ちょっと驚いてから、俺にも笑顔を振りまいてくれた。
 「いつものコースで」
 「はいはい」
 様子からすると、かなりよく来てるようだと思った。
 「黒崎、苦手なもの、ないよね?」
 「えっと、たぶん」
 「ここは魚がおいしいのよ。思い込みかも知れないんだけど、頭使うと、魚食べたくなっちゃって」
 笑いながらチーフが言った。
 
 カウンターの一角に並んで座る。
 小いわしの刺身やたこの天ぷら。お酒は注文を聞かれることなくいきなり冷の日本酒がグラスで出てきた。枡の中にグラス。たっぷりと注がれた酔心の吟醸。
 「いいよね?」
 「はい」
 「今日は二日酔いしないようにね」
 「……しません」
 ちょっと憮然とした口調でそう答えると、チーフはおかしそうに笑った。
 やっぱ俺って相当面白がられてるらしい。でもチーフがそうやって笑ってるのは決して嫌じゃなくて、まぁいいかと思う。
 
 あっという間に一杯目が空いて、二杯目。
 ちょっとペース早くないですか。と、そんな事を思うものの、おごりだ、と言って連れられてきているのはこっちだし、飲んでいけないわけでもない。
 明日は土曜日で休みだから、チーフも飲みたい気分なのかな、とそんな事を考えた。
 「はい、黒崎もつきあって」
 「はいはい」
 そうは言っても、グラスで来ているものだから、さしつさされつ、というわけには行かないのがちょっと残念だった。
 
 チーフもそう思ったのか、二杯目が空いたとき、
 「黒崎、瓶で頼もうか」
 そう言った。
 「いいですね」
 断る理由もない。チーフがお酒のメニューに手を伸ばす。
 「何にしよう」
 そんなチーフの呟きが聞こえたのか。
 「志織ちゃん、あれは?」
 女将がそう言った。
 「え……あー」
 チーフはそう答えたものの、ちょっと躊躇っているようだった。
 「なんですか?」
 「美少年」
 「は?」
 女将の返事に思わず聞き返した。
 「他のでいいですよー」
 うわー、チーフがいささか照れているような気がする。初めて見るかも、こんな顔。
 
 「あ、バランスが良くて、美味しいことは美味しいのよ? でも……」
 あ、お酒の銘柄なんだ、とそこで気付いた。一瞬変な想像しちゃったじゃないか。
 
 「女一人で来て、美少年なんて書いたボトル飲んでたら、ヤラシイでしょ。だからグラスでは割といただくんだけど」
 「今日は二人だから、いいじゃない」
 「そういう問題じゃないですー」
 結局それまで飲んでいたのと同じのをボトルにしてもらった。
 
 「好きなんですか? 美少年」
 俺が聞くと、ちょっと嫌そうな顔をして、
 「どっちの」
 とぶっきらぼうに答えた。なんかその顔がふてくされているみたいで、少しかわいいとか思ってしまう。
 「えっと、とりあえずお酒の方」
 「好きよ」
 「じゃ、人間の方は?」
 「美しくないよりは美しい方がいいに決まってるじゃない」
 「そりゃそうですよね」
 あまりにもチーフらしい言い方に、思わず笑った。
 「まさか、囲ったりとか……んぐ」
 してないですよね、と言いかけたら、口にたこの天ぷらを突っ込まれた。唐突な人だ。
 でもその顔は怒ってないっぽいから、俺は素直に口を閉じて、天ぷらを味わった。
 
 「もうっ、黒崎の中の私って、どんなのなのよ」
 独り言みたいにチーフが言った。どんなのって……そのまんま、ですけど。
 そのまんまっていうのも変かな。驚かされてばっかりっていうのはあるから。でもそのどれも、嫌だとか思わないし。あぁ、チーフだよなって思うような。
 こういうのをベタぼれって言うのかもしれない、とふと思ったけど、それは口にはしなかった。
 

 店を出てから、歩いて会社の方へと戻る。チーフが腕を組んで来たので、俺はちょっと驚いた。
 「えっと」
 「何、いや?」
 「そうじゃないですけど、いいんですか?」
 誰かに見られるかも、とかそんな事を思う。それに、お酒のせいもあるのか、妙に暖かいし、柔らかいし、足取りも少しおぼつかないし。
 「私はいいもん。でも黒崎が嫌なら離す」
 俺はあわてて引き止めた。嫌なわけがないだろ。
 
 「黒崎が、まじめに付き合いたいとか言うから、これでもそれっぽいかなぁとか、気にしてるのにっ。今日だって、どういう風に誘うのがいいかなぁとか、考えたのにっ」
 ええ?
 そんなことまで考えてくれてたのかとか思うと、これはかなりびっくりだった。
 それに……口調がなんかヘンなんだけど。そうとう酔ってる? まるで童女のようなその口調に、俺はかなりノックアウト寸前だった。
 ヤバイ。すんげーキテる。俺はチーフを抱きしめた。
 
 いきなりだったから、チーフはちょっとだけびっくりしたみたいに身を堅くした。でも。 
 「黒崎……? ねぇ、うちに、来る?」
 「ハイ」
 ……すごく幸せかもしれない。行きます、どこへでも。
 
 タクシーをつかまえて、乗り込む。俺はチーフの家なんて知らないから、ただ、黙って隣に座っていた。腕こそ組んでいないものの、手はしっかりとつながれていて、ちょっともたれかかってきているチーフの感触は柔らかくて、俺はずっとドキドキしっぱなしだった。
 タクシーは一軒の小ぶりな、でも瀟洒な作りの建物の前に止まった。
 タクシー代を払う。さっきは払わせてくれなかったけど、ここでは素直に出させてくれた。
 「ここ、ですか?」
 コーポと言うのだろうか、こんなのでも。4軒の集合住宅だけど、いわゆるメゾネットタイプ。
 「男あきらめて家買った、って言われたのよ」
 思わずクスリと笑うと、ちょっと睨まれた。
 
 中へと入る。シンプルだけど冷たくない内装やインテリア。あぁ、チーフのセンスだな、と思う。
 「っっと、わ、わ」
 腕を引っ張られた。唇に、柔らかい感触。……いきなりかよ。忍び込んでくる舌に舌を絡める。
 「んっ」
 小さく声を漏らした。昨日みたいにやられっぱなしというのは、正直もうごめんだし。
 と思ったのはそこまでだった。
 
 床にごとんと押し倒された。
 「っ、ちょっと、チーフっ?」
 「なによう」
 「寝室、ベッド、どこですか?」
 さすがにキッチンの床は、冷たいし痛い。
 
 「あっち」
 
 寝室に倒れこむと、あっというまにネクタイを抜かれ、……手首を縛られた。ありかよ、こんなの。俺の抵抗する気は、しっかり読まれてたみたいだった。
 しかも。
 「いや?」
 とか、小首をかしげて、うるうる目線で、口調はさっきのちょっと舌足らずな、甘えた声で。
 イヤとか言えるわけ、ないだろう!?
 
 で、しぶしぶ「いいですけど」とか何とか言ったら、なんだ、そのうれしそうな顔は!
 そんな顔で笑われたら、もう俺としてもあきらめるしかなくて。
 
 服を脱がされて、執拗に乳首を攻められて、挙句に口でイカされて。……普通、フェラって男が征服感を感じるもんじゃないのか? なんだか「ヤラれてる」気分だったんだけど、それは俺の気のせいなんだろうか。
 そんな俺の気持ちも、結局のところ、終わって裸の彼女を抱きしめて(もちろん途中でネクタイははずしてもらった。抵抗しないから、と言って懇願して、だ!)キスなんかしたら、それはそれとして、まぁいいか、っていう気分になるんだから、どうしようもない。
 
 俺ってもしかして、ずっとこんなで、行くんだろうか。
 

 翌朝。
 俺が目を覚ましたとき、彼女はまだ夢の中だった。寝顔を見てたら、やっぱり気付くものなんだろうか、うっすらと目を開けた。
 「あ、おはよー」
 ちょっと驚いて、でもすぐに状況は把握したみたいで。

 「オハヨーゴザイマス」
 俺も一応あいさつは返したけど。
 うーん、やっぱり朝の光の中で、こういう状況って言うのはちょっと照れる。
 「あー、ごめん」
 え? 
 
 唐突に出た、ごめんの言葉に、俺はちょっと焦った。ごめんって言われるシチュエーションか? これ。
 「え、何が?」
 思わず尋ねた俺に帰ってきた言葉は
 「私、酔っ払うとヤリたくなっちゃうのよねー」
 だった。
 オイ、コラ! っていうか、それって……
 
 「やだなー、そんなに傷ついた顔、しないでよ」
 しないでかっ!
 「一昨日は酔ってなかったわよ?」
 え、あ、そうか。でも……
 「陸海のこと、結構好きよ。だからあんまり体だけって感じにはなりたくないな、って思ってたんだけど、あはは、やっぱ酔ったら理性飛んだわー」
 そう言って、チーフは俺にぎゅっとしがみつくみたいに、俺のことを抱きしめた。
 「だからごめんね?」
 全然問題ないっす。
 いや、多分俺にとっての問題は、もっと他のところにあると思います……。
 
 「昨日陸海に仕事手伝ってもらったから、今日は持ち帰りしてないのよね。一日ゆっくり過ごせるわよ?」
 「え?」
 「色々考えたのよー。でさ、陸海に仕事手伝ってもらえば、陸海は色んな仕事覚えられるでしょ、私は持ち帰ってまで仕事しなくて良くなって、一緒にゆっくりできるでしょ、ほうら、一石二鳥。私って頭いい!」
 えっと。俺はチーフの言った事を反芻した。
 昨日昼に仕事を言い渡されたときから、とりあえず今日のことを考えて、そういうことになったのだ、ということだけは把握した。
 
 すげー。やっぱ俺、かなわないかも。っていうか、かなうとかかなわないとか、そういう次元じゃないかも。
 敗北感と、少し嬉しい気分と。
 ただ、チーフはチーフなりに、というか俺の考えていた以上に俺のことを思ってくれているんだ、とそれだけははっきり分かった。
 
 だったらいいや。うん、いいことにしよう。俺は自分に言い聞かせた。
 ……言い聞かせたんだってば。

 ――――― Fin.

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