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 前編

 喰われた――翌朝、ふと思ったのはそんなことだった。
 
 天国から地獄へ、という言葉は良く聞くけれど、地獄から天国へ、というのはそんなにあるものなんだろうか。
 そんなことを思ったら、やっぱりあれは現実ではないんじゃないか、とかあるいは……単純に面白がられただけなのか。
 そういう風に考えてしまって、その行き着く先は、結局遊ばれただけかもしれないなとか、本気じゃないんだろうなと、そのあたりで落ち着いてしまう。
 いや、それは実はコトの最中にも頭の中をちらちらしていて、目の前には彼女の色っぽい体があって、完全に据え膳(というのかどうかも怪しいが)だっていうのにどこか醒めていた部分があったのも事実だ。
 だってあんな人だとは思わないじゃないか。
 
 仕事では厳しい。
 そりゃ厳しいさ。でも、それ以外の部分で見せる気遣いとか、世間話をしているときの雰囲気では、そんなにSな人だとも思っていなかった。
 いや、Sっていうか……別に痛い目に合わされたわけでもないけど、でも、あれはやっぱりSっ気っていうんだろうな。
 
 失恋したとばかり思っていたそのショックと、生まれて初めての二日酔いの、あまりの衝撃にすっかりしょげていた俺は、正直昨日、あまり万全ではなかった。
 家に来られたと知った瞬間、あぁ、これはもう、大激怒なんだな、と信じて疑ってもいなかった。
 そのくらい、彼女は仕事に厳しい。
 家でもんもんとしている間にも、この位だったら這ってでも仕事に行っておくべきだったと何度も悔やんだが、その間にも時間は過ぎるし、結局その踏ん切りがつかなかっただけなんだけど。
 
 そうだ、昨晩は俺が弱気になっていたから、それであんなことになっただけ、なんだ。
 そう思おう。
 
 最初の電話が鳴った時に、俺はすでに狼狽していた。
 失恋したての相手に、(いくら相手は知らないとはいえ)ずかずかと家に入られて、それで平静を保てるわけもない。
 まして、相手は職場の上司で。
 とんでもなく、仕事の鬼で。
 そんな人相手に、二日酔いで寝込んでしまった人間が弱気になってしまうのなんて、そうだ、当たり前だ。
 
 ……一人でそこまで考えて、少しだけ情けなくなった。
 それは昨日のことへの言い訳であって、ただの理由付けだ。今日からの二人の関係は予測もつかない、という意味では何の役にも立たない。
 
 あー。考えてても仕方ない。仕事、行くか。
 俺はテーブルの上のコーヒーマグを手に、立ち上がった。
 

 たった一日休んだだけだと言うのに、ずいぶんと来てなかった気がした。
 会社の駐車場に車を入れながら、そんなことを思う。長い一日だったんだなー。
 
 「あ、おはようございます」
 「お、おはよう。もう、いいのか?」
 エレベーターで、俺たちの課のサブチーフの北川さんと一緒になった。
 「はい、大丈夫です」
 「そっか」
 
 ちらりと北川さんが、俺のことを物言いたげに見た。
 「なんですか?」
 「いや……お前、今日朝一で、多分雷おちるぞ?」
 「えっ?」
 雷、って……その――
 
 「チーフが昨日『黒崎っ!』って怒鳴ってたからな」
 
 ……えー。何も聞いてないんだけど。
 「なんか昨日は朝からイライラしててさ、昼過ぎに静かに書類見てたかと思ったら突然『黒崎!』だからさ、知らない間に黒崎出てきたのかと思って、ちょっとびっくりしたよ」
 そう言って北川さんは笑った。
 「そうですか……」
 北川さんが嘘や冗談を言っているようにも見えなかったので、ホントだろうなと思ったら、いきなり滅入ってきた。
 そりゃ、昨日の今日で、何かが劇的に変わるとかそんなことを思ってたわけでもないけど。
 ましてや仕事の場だしな。昨日休んだ分、溜まってるのもあるだろうし。
 
 上着を脱いで、オフィスに入り、荷物を置くとすぐにチーフのところへと行く。
 
 「おはようございます」
 「あ、おはよう。もう大丈夫なの?」
 意味深に細められた目に、ちょっとドキドキしながら
 「大丈夫です」
 と俺は答えた。
 「そう。昨日の分まで今日一日で片付けなさいよ?」
 「はい……それで、あの〜」
 「何?」
 ちょっと眉間に寄せられた皺。
 北川さんの言ってたことは、忘れてるんだろうか。でもどこかでまた呼ばれて叱られるくらいなら、自分から言おう。
 
 「昨日、僕、なんかしてましたか? 北川さんからちょっと聞いたんですけど」
 「え? あ、あぁ、そうよ、黒崎、あんた、……」
 チーフはちょっと絶句したような、というかなんとも言いがたい表情をしていた。
 っていうか、笑いたいのに堪えてる? っていうか、その表情、昨日も微妙に見覚えあるんですけど……
 
 「なんでしょう?」
 恐る恐る聞く。
 チーフの右手は机の上の引き出しボックスから、書類を一式取り出した。
 「これ」
 ピンクの付箋に、大きく赤い×印。
 おそるおそるめくると、「異常誤報告させて頂きます」の文字が。
 
 ……。
 思わず表紙の担当者名を確認してしまった。いや、俺なのは分かってたんだけど。
 「見なくても結構。黒崎、あんたの書類」
 ダメ押しのようにチーフが言った。
 「異常なのはあんたの頭の中だけで十分。至急で直すように」
 異常って、そんな。
 あんまりな言い方に思わず顔を見ると、相変わらず噴出すのをこらえているようなチーフの顔があった。
 「何よ、反論でもあるの? そんな間違いを、平気で出してくる人間の頭の中が正常だとでも?」
 ……スミマセン。
 
 「はい、申し訳ありませんでした」
 何かを言ったところで、勝てるわけもなし、俺はすごすごと書類を手に机へと戻った。
 途中、北川さんが俺の腕をぐいっと掴む。
 「何やったんだ、お前」
 え、……これはさすがに見せたくないなぁ。っていうか、俺も自分で可笑しくなっちゃうくらい笑える誤字だしな。
 「私も見せて」
 近くの何人かが覗き込むように寄ってくる。
 
 「え、あ、そのー」
 一応隠すような振りはしたものの、北川さんに取られて、見られた。
 「わっ、はっ、は……お前、なんだよこれー」
 俺は何も言えずに、そのまま笑いものにされる。
 「こら、そこ。黒崎は病み上がりで仕事も溜まってるんだから、あんまりかまわないの!」
 チーフが机に座ったまま、そう言って、北川さんたちはしぶしぶ、という感じで席に戻った。
 
 病み上がり、かぁ。一応そういうことにしておいてくれる、と言うことみたいで、なんだかほっとしたような、でも落ち着かないような。
 まぁチーフがそう言うんだから、それでいいんだろう。
 とりあえず、誤字の修正から、仕事に入った。
 

 昼休み。案の定、仕事はそう簡単には進まずに、他の人たちが食事に出かけるのを尻目に、俺はパソコンにかじりついていた。
 俺たちの課には、俺とチーフだけが残っていた。
 普段は先に帰ってくることはあっても、残ってることはあまりないのに、珍しいな、とちらりとそんなことを思ったが、何しろ自分の仕事がかなりタイトなもので、それ以上何を思うこともなかった。
 
 返してもらった書類は、件の書類だけじゃなくてもう二つほどあったんだけど、それにはそれぞれ修正すべき箇所や、明らかにおかしいと思われる点にチェックが入れてあって、それを直して行くだけでも結構時間がかかる。
 しかもそのうちの一つは、調査対象の期間自体を間違えると言う、ありえないミスまで。
 何やってんだ、俺。っていうか、これをチーフがチェックしてるときに、いなくて良かった〜。
 
 ってなことを考えてたのがばれたのか。
 
 「た、か、み」
 妙に色っぽい声で、突然耳元で囁かれた。
 う?
 「うわぁっ」
 そこにいたのはチーフだった。俺、今、独り言とか言ってないよな、ってか、なんでそんな近くに、ってか、今なんて言った!?
 
 「何よー。そんな驚くことないじゃない。ヤバいこと、してたわけじゃなし」
 びっくりして椅子から半分落ちそうになった俺を見下ろして、チーフは言った。
 「は、はい?」
 「ご飯、行かないの?」
 「あ、ちょっと今日は……やめときます」
 「病み上がりだから?」
 にやにやと笑いながらチーフが言った。
 「え、いや、その……」
 分かってるくせに、そういうこと言うんだもんな。
 
 「チーフこそ、行かないんですか?」
 「え、あぁ、今から行くよ。ただ、その前に言っておこうと思って」
 「はい?」
 一つ、書類の束。
 「これ、追加ね。で、今日は残業すること」
 「えー?」
 「もちろんサービス残業ね」
 チーフがこういう言い方をすることは珍しい。普段から定刻に帰れとうるさい方だった。
 
 「いいですけど……」
 ざっと目を通す。
 「これ、チーフの仕事じゃないですか」
 「やってくれないの?」
 「……やりますけど」
 病み上がりなのに、と(もちろん冗談で)言おうかと思ったが、はっ倒されそうなので、やめた。
 
 ぽろん、と飴玉を二個、机の上に落として、チーフは食事に行ってしまった。
 それをなめながら、考えた。さっき、陸海って呼ばれた気がする。
 それって……それって、そういうことだよな。
 うれしいような、恥ずかしいような、照れくさいような。うわー。年甲斐も無く、顔が火照ってくる。
 昨日のことは、やっぱ夢じゃないよな、とか。
 いかん、いかん。仕事仕事。それでなくても、今しがた仕事が増えたばっかりだぞ。
 慌てて気分を引き締める。
 
 それに……朝、チーフから返ってきた書類はいつも以上に細かく、赤が入れてあった。
 普段は口頭で言われるようなことも、字で書いてあるので、正直チーフには負担を掛けちゃったな、とそんなことを思った。
 だったら、チーフの仕事手伝うくらいは仕方ないよな、とか思う。本当に病気だったんならともかく、チーフは本当の理由を知っているわけだし。
 
 昨日のことはそれはそれとして、せめて仕事ぐらいは早くきちんとできるようになって、片腕とまでは行かないまでも、頼りになる部下、ってくらいにはなりたいと思う。
 

 夕方、自分の仕事は、定時を少し過ぎた頃に終わった。
 もちろん、遅れた分を取り返す、なんてことには全くならなかったけれど、昨日の分と、今日の「どうしても今日中に終わらせないといけない分」はほぼ終わり。我ながらがんばったよなぁ、と些細な達成感を味わう。男黒崎、やれば出来る。
 とはいえ、目の前にはもう一つの書類。そう、さっき昼休みにチーフから渡されたそれだ。
 
 ちくしょー。
 何が悔しいって、もちろん、定時に帰れないことなんかじゃない。(だったらそもそも、チーフの仕事なんだから、断ってる)
 「俺」が「それなりに必死にやれば」、「今日やらなければいけない俺の仕事」は「ほぼ定時には終わる」だろうとチーフがあの時点で俺のペースを読んでたらしいことだ。
 これは悔しい。自分でもまだ自分の仕事のペースもあまりつかめていないっていうのに、何であの人にはわかるんだ。

 ちぇっ。
 机越しに、チーフの方を見た。俺の机からは結構距離があるし、パソコンのモニターにさえぎられて、あんまり顔はよく見えないんだけど。
 チーフは夕方から、ミーティングに入っていて、さっき帰ってきたばかりだ。
 その時の横顔はちょっと疲れて見えた。俺の視線に気づいたのか、なんでもない、という風に笑って見せたけど。
 
 しゃあないな、がんばるか。
 俺はモニターに向き直った。

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