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 1.
 「志織さん、出来たよ」
 階下から、陸海の呼ぶ声がする。
 
 「ありがと。降りる」
 ファイルに保存をかける。ちらりと時計を見た。もう6時を回っている。今日は終わりかな。
 パソコンはメーラーだけ残して、残りは全て閉じた。
 
 階段を下りるにつれて、いい匂いがしてくる。ハンバーグにするとか、言ってたっけ。
 「おつかれさま」
 すっかり慣れた調子で、陸海が夕食の用意をしている。
 陸海は慣れた調子だけど、こっちはいまいち慣れなくて、いまだに、どこかなんだか、居心地の悪い気がすることがある。
 
 「ありがと、っていうか、ごめんね」
 そんなにご馳走、と言うわけではない。というよりはむしろとてもシンプル。
 「あー、でも、出来るからやってるだけだし」
 陸海がちょっと照れくさそうに笑った。
 
 陸海と付き合い始めて、二月ほどが過ぎた。そして私たち――特に私の――仕事は、現在繁忙期を迎えていた。
 

 陸海がこんな風に夕食を作るのは、今日で3週目だ。最初はもちろん、陸海にそんなことをしてもらおうとも、してもらえるとも思っていなかった。
 でも、一応そういう関係で、仕事でも同じ部署で、ということは、私がちょっと調子を崩したり、不規則な生活を送っていたら、すぐにばれる、ということで。
 
 「志織さん、最近ちゃんとごはん食べてる?」
 そんなことを言われた時にも、適当なことを言ってごまかそうとしたのだけれど、簡単には引き下がってくれなかった。
 っていうか、以前に「メシも喰わずに仕事すんな」と説教したのは私の方だしさ。
 それを引き合いに出されるまでもなく、陸海からそう問われたときに、陸海が私のことをやや非難がましい視線で見ていることは分かっていたし。
 
 「ごめん、……つい、後回しになって」
 言い訳がましく答えた私に、陸海はため息を一つ、ついただけだった。
 陸海としては、毎日でも来て、なんとかしたい、という風なことを言っていた。でもそれはさすがに了承しかねて――だってそんなの、今度は陸海に無理をさせることになるし――結局、週末の食事は陸海がコントロールする、ということになった。
 
 食事を作れないわけではない。なのに、自分の仕事を持ち帰って、やってる間に部下の男に食事を作らせる、というのは、どうなんだろう、とは思う。
 だけど陸海はそんなことを気にすることはない、と言い張るし、実際に陸海にそうやって来てもらえて、一緒に食事をしたり、じゃれあったりしたら、確かにすごく楽で、負担は少ない。そんなことが分かってしまったら、それ以上その甘い誘惑を振り切ることは出来なかった。
 
 「もう少しで、終わるから」
 
 私の仕事が忙しい、ということは、陸海だってヒマじゃない。
 さすがに持ち帰りはしてない(と思う)けど。
 「僕より志織さんの方が大変なんだから、気にしなくていいって」
 「だけど」
 「僕はやりたいから、やってるの」
 「だけど」
 「志織さん? 行き詰ってるの?」
 「……」
 
 陸海の腕が伸びる。抱きしめられる。
 なんだかなー。全部お見通しなんだもんな。それはそれで、いいんだけど。
 陸海の顔を見上げた。唇が降りてくる。なんだか少しだけ、泣きたくなった。
 「やっぱ、志織さん疲れてる」
 「うん、そうだね」
 暖かい陸海の感触。髪の毛を撫でられて、少しだけ、涙ぐんでしまった。うん、疲れてる。
 でもこのくらい、一人のときはなんともなかったのに。陸海にこうやって優しくされると、なんだか自分がとても弱くなった気がした。
 
 「ごはん、食べちゃいましょう」
 「うん」
 涙には気づかないふりで、陸海が言った。そんなところにも、すごく感謝する。陸海は実は結構大人だよな、とそんなことを思った。
 
 テレビを見ながら、おしゃべりをしながら、ごはんを食べる。そんな当たり前のことが結構幸せなんだと思えるようになっただけ、陸海と付き合ってよかったのかも知れない。
 いろいろ、いろいろ、あるけれど。
 
 ごはんの後、一緒にお風呂に入った。
 体を洗ってもらったり、背中を流してあげたり。で、そのままじゃれあってるうちにその気になって、エッチまでして、……そんなことでも、癒されちゃうんだから、お手軽かなと思う。
 でも、そんな時間が疲れてる私には一番効くんだから、仕方ない。
 
 一週間分の疲れを癒して、私はその夜も眠った。
 

 それからさらに二週間。なんとか、山場は越えることが出来た。
 今日は軽く、打ち上げもかねて、課内での飲み会がある。
 もちろん、私も陸海も参加する。
 
 「おつかれさまです」
 会場に指定された料理屋に着くと、もう大半が来ていた。陸海もすでに到着している。とはいえ、こういう席ではなんとなく分かれてしまうのは仕方ない。
 私はどちらかといえば上座に近いほうの、課長とか他の主任とか、そういう人たちがいる辺り。
 陸海は下に近い方の、同じ部署の他のメンバー達と。
 向かいには北川が座ってて、隣は隣のチームの主任。他愛のない世間話や、今回の苦労話や……そんなことを話しているうちに、時間は過ぎていく。
 
 陸海は端っこのほうに最初座っていたけれど、途中でなんやかんやと入れ替わりがあるのもいつものことだ。どうしても、仲の良い同士が近くになってしまうものだし。
 かくいう私も、どういうわけだか課長に弾き飛ばされて(隣の主任と、話したいことがあったらしい)今は北川の隣に移った。
 
 「俺はおもちゃじゃないですよっ」
 陸海の声が聞こえた。その瞬間、起こる爆笑。あー、また何か、遊ばれたんだな、とそんなことを思う。
 「チーフ?」
 陸海はどうしても、その性格ゆえか、愛されているからか、こういう席では結構人気があるんだよなー。
 ちょっとだけ、さびしいような、というよりは、もう少しはっきりとしたジェラシーを感じる。あぁ、そっちに行きたいなぁ……
 
 「咲野チーフ?」
 「え?」
 北川が、私のことを呼んでいた。
 「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしていた」
 「……いいですけど」
 
 「チーフって彼氏いるんです?」
 
 突然の質問に、思わず硬直する。っていうか、さっき陸海のこと考えてたの、ばれたかしら。
 「な、何、突然」
 「いや、どうなのかなーと思って」
 北川は当たり障りの無い返事をする。でも、その程度で、いきなり聞いたりはしないよね、多分。
 「一応、いるけど?」
 北川相手にあんまり隠し事をするのもなんだし、隠さないといけないことでもない。
 プライベートだから、わざわざ言うことでもないけれど、聞かれたからには一応ちゃんと答えるのも礼儀ってもんだろう。
 
 「あー、やっぱり」
 ……やっぱりってなんだ。そんな私の表情を読んだかのように。
 「チーフ、最近変わりましたよね」
 「え?」
 北川が少し愉快そうに笑った。
 「前より、ずいぶんと変わってますよ。気付いていないのかもしれないですが」
 そう言った。
 「そうかな」
 とりあえず、どうとでも取れる返事。その「変わった」がいいのか悪いのかも分からないから。
 「うん、仕事に余裕が出てきた感じになった」
 「余裕?」
 んなもの、あるわけないんだけど。
 
 「俺が入った頃は、ギスギスしてたし、こえー、って感じだったんだけど、慣れてくるとそうでもなくて、でもやっぱりちょっと突っ張ってんのかな、ってそういう感じだったけど」
 北川がちょっと区切った。
 「最近、余裕が出てきたように見える」
 「で、男?」
 安直だと思うんだけど。それとも、それ以外にも理由があるのかしら。
 
 私が素直にそれを口にすると、北川は少し苦笑いをした。
 「あー、いや、確かに……」
 口ごもる。
 「スンマセン、半分ぐらいは本当だけど、半分くらいはカマかけです」
 「どういうことよ」
 ちょっとむっとする。カマかけ、ってどういうこと?
 
 ぐいっと北川の顔を覗きこむと、北川が顔を引いた。
 「あ、いや、その」
 視線が泳ぐ。その先を追った。そこには陸海の姿。
 え?
 
 「あの、……ちょっと離れてもらえません?」
 「ヤダ。どういうことよ」
 詰め寄る。
 
 ……っていうか、バレてる、ってことなんだとは思うんだけど。
 だからこそ、不用意に主導権を奪われるわけには行かない。
 「あー、いや、その……もし違ってたらなんていうか失礼っつーか、申し訳ないんですけど」
 「何?」
 
 「……黒崎、ですか?」
 かすかに聞こえるぐらいの小声。
 あー、やっぱバレてたか。
 だろうな、と思っていたので、そのこと自体には衝撃はなかった。っていうか「失礼」とか「申し訳ない」とか、そっちの方にちょっと引っかかったり。
 「失礼っていうのは、どういう意味よ」
 笑いながら言うと、あ、いや、とかなんとか口ごもった。
 
 「そんなに分かりやすいような行動は、とった覚え、ないんだけどな」
 北川に言ったわけでもないけど、思わず口に出た。
 それをどう取ったのか。
 「俺以外は多分気づいてないっていうか、想像してもないと思いますよ」
 北川が言った。
 
 「なんで?」
 「偶然だったんですよね」
 「何が」
 「見ちゃったもんで」
 あー。まぁ出かけてるときにコソコソしたりはしなかったから、どこかで見られてたかも知れないなとは思う。
 「朝、二人で歩いてるの、見たんですよね。でもまさかそうだとは思わなくて、偶然会ったか何かかな、と思ったんですけど、別々に出社してきたから……」
 
 いつの話だ。っていうか、大分前のことじゃん。
 
 「偶然会ったんだったら、普通そのまま一緒に来ますよね。でも別々だったから、じゃ逆にもしかして、とか思って」
 しまった。裏目に出たか。まぁでも、見られてたんなら仕方ないな。
 「別にそれでどうこう、ってわけじゃないんですけど、まぁ……気になったというか。ホントの所を知りたいなぁと思ったというか」
 
 「うん、当たり」
 素直に返事をした。私が意外にあっけなく認めたのが拍子抜けだったのか、北川は北川で、ちょっと苦笑した。
 「素直に認めるんですね」
 「……だって隠すようなことでもないし」
 「いや、まぁそうですが」
 「北川は別にそれでどうこう、言ったりやったりすることもないでしょ」
 「そりゃ、まぁ、ねぇ」
 なんだか複雑な顔をしている。
 と思ったら、くすっと笑った。
 
 「俺がチーフ口説こうと思ってたのにな」
 「……は?」
 
 ちょっと待った。
 「は?」
 もう一度。
 「俺が、チーフ、口説こうと、思ってたのにな」
 これ見よがしに区切って、北川がもう一度言った。
 
 「ちょっと待った」
 陸海のことだって、想像してもいなかったけれど、こっちはもっと驚きだった。私ってそんなに鈍いかな。
 「いや、結構マジに」
 思わず少し後ずさって、北川の顔をしげしげと眺めてしまった。
 でも北川はあんまり気にしていない、というかむしろ楽しそうに、そんな私を眺めている。
 「今からでも口説いていい?」
 「ダメっ」
 とりあえず、それはお断りする。っていうか、ありえないから!
 
 「ちぇ……」
 北川が少し口を尖らせて、そう言った。ねぇ、もしかして、からかわれてる?
 「っていうか、突然そんなこと言われても信じられないし、……たか、黒崎のこと聞いて、突然その気になったとか、そんな風にしか思えないんだけど」
 「そういうわけでも、ないかな」
 「そうとしか、思えない」
 きっぱりと断言した。
 聞いた瞬間は、ちょっと動揺して、ちゃんと考えられなかったけど、今のやり取りをしつつ、冷静に考えたら、やっぱりそんなことはありえないと思う。
 
 「そこまできっぱりと否定されるってのもどうだかなー。いいんだけど」
 こら、いいのか悪いのか、はっきりしろ。
 「うーん、深刻に悩まれるよりは、いっか」
 わけわかんないし。
 「ま、そのうちに、くらいは思ってたってことですよ。……黒崎に持っていかれるとは思ってもなかったけど」
 
 その程度には、ってことか。
 「すまないねぇ」
 冗談めかして、とりあえず言った。
 その口調に、北川も笑った。
 「なんか、余裕だなー」
 「そう?」
 「うん、そう思ったら、なんか悔しくなってきた」
 眉をわずかにしかめて見せた。
 「何、言ってるのよ」
 思わず笑ったけど、北川はちょっとだけ、難しい顔のまま。
 「俺、黒崎、苛めてもいい?」
 
 ……。
 「ちょっとなら、ね」
 「ちょっとかぁ」
 あはは、と北川が笑った。

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