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 1.

 朝から、気分がもやもやしていた。なんだかすっきりしないというか、頭にエンジンがかからないというか。
 書類を書いていても、些細なミスをするし。午前中いっぱいミーティングがあったけれど、それも眠くて、だるくて、気付いたら終わってたって感じだったし。
 
 どうしちゃったんだろう、私。そんなことを考えながら、お昼をとって、それから午後の業務がスタート。
 普段だったら片付くはずの量の仕事も、なんだか鬱陶しいし、かかってくる電話にもイライラした。私のそんな気持ちは、部下にも伝わるみたいで、そこはかとなく、私のデスクのある島は緊張感が漂っている。
 
 あぁ、悪いな、と思うけど、なんにせよこの原因を突き止めるなりなんなり、現状をどうにかしないことには、このイライラは収まりそうもなかった。
 
 とりあえず、溜まっている書類に目を通す。中身は主に、スタッフから上がってきたクライアントへ出す報告書で、そんなに難しいものではないけれど、時々妙な間違いがあったりするので、一応上司としては目を通して、印を押して、というのは義務。
 
 って。
 異常誤報告させて頂きます。……?
 「こらぁっ、黒崎ぃっ!」
 書類の表に押してある印の名前を確認して、怒鳴った。
 なんじゃこりゃ。パソコンに頼るから、こんな変な誤変換になるのよっ。それともウケ狙いかっ!?
 
 周りのスタッフが、驚いて顔を見合わせている。でも、私の怒鳴り声に反応したというよりは、……。一瞬沸騰した頭が、辺りの気配に反応して、クールダウンした。えっと……?
 「あの、チーフ、今日黒崎休みですけど?」
 「あ?」
 
 みるみる温度が冷えていく。
 「あはは、そうか。忘れてた」
 照れ笑いをしてみせると、それで辺りが一気に緩んだ。
 「朝、連絡あったじゃないですか」
 「忘れてた」
 「チーフ〜」
 ちょっと呆れたように笑われて、私もおかしくなって思わず声を立てて笑った。
 
 そういえば、いなかった。
 体調が悪くて、休ませて欲しいと電話があった、と人事から連絡があったっけ。ちょうどミーティングに入った直後で、何かあったら連絡して欲しい、というメモが机の上に残ってた。
 
 「いたらいたで、いじめられるし、休んでも気付いてもらえないし。不憫なやつ」
 サブチーフの北川がそう言って笑いを取った。
 サブと言っても、私とは同い年で、途中入社だから北川の方がサブ、と言うだけの、まぁ言ってみれば頼りになる相棒だ。
 「チーフ、昨日いじめ過ぎたんじゃないんスか?」
 「そんなことは、ないわよ」
 
 黒崎は入社してやっと二年目。まだまだ至らないところも多くて、よく叱ってるのは事実だけど。
 「いじめなんていうと、聞こえが悪いな。愛のムチよ、愛のムチ」
 聞こえない振りをしつつも、何人かが苦笑している。
 うーん、やっぱり無理があるか。だって黒崎ってからかうと面白くってさ。叱ってもへこまないし。
 
 そっかー、黒崎、休みかー。
 
 さっきまで気付いてもいなかったくせに、いないとなると、急にしみじみとそんなことを思うんだから、私もいい加減なものだ。
 普段だったら仕事に疲れたら、黒崎をかまって遊ぶんだけど。それも今日はないんだぁ……ちょっと寂しいような。

 窓の外はくっきりと晴れ渡っている。この時期には珍しく、もくもくと入道雲が立っているのが見えた。気温もかなり上がっているらしい。
 久しぶりに夕立なんか、降っちゃうかもしれない。
 
 一人で家で寝ているだろう黒崎のことを、ふと思った。
 

 夕方、日が暮れるにはまだ少し早い頃。案の定みるみるうちに外が真っ暗になってきて、ガシャンだがガンだか、突拍子もない雷の音が聞こえたかと思ったら、いきなり雨が降ってきた。
 
 日が傾くほどに、雨も雷も激しくなってきている。
 しかもこんな天気だから、終業時刻を過ぎたら、帰れる人間はさっさと帰ってしまった。
 「北川、今日残るの?」
 「ん? あぁ、んー、もう少し」
 腕時計を見ながら、そう言った。
 「そう、私あがっていい?」
 「どうぞ、どうぞ」
 すこしおどけた口調で言う北川の言葉に甘えて、上がらせてもらうことにした。
 駐車場はビルの地下。こういうときは、同じ建物の中に駐車場があるのは便利だなと思う。雨具もなしに、こんな天気の中を歩くのは、ちょっと嫌だった。
 
 車に乗り込み、エンジンをかけてしばし逡巡する。
 どうしよう。
 
 昼からずっと、心の中でもやもやしているものがある。それは何だかつかめるようでつかめなくて、だからこそ余計にもやもやと心のうちを漂っているのだと思う。
 
 稲妻が光った。ザァーっという音が一段と激しくなった気がした。少し遅れて、ガンッという音。バリバリと夜を裂く音。
 
 行ってみよう。この心のうちの衝動が何なのか。
 

 過去に教えてもらったマンションの駐車場。以前この近くの取引先に一緒に来たことがあって、たまたま知っていた。
 もちろん部屋番号なんかは知らないし、何より入り口にオートロックがあるから、中から開けてもらわないことには入れないから、そこから電話することにする。
 
 「もしもし? 黒崎?」
 「え? チーフ……ですか?」
 「うんそう。今、下にいるんだけど、何号室? っていうか、開けて」
 携帯電話の向こうで、バタバタという音が聞こえる。
 「あのっ!?」
 「何?」
 「何かありましたかっ!?」
 「ないけど。見舞い」
 「……はぁ……」
 
 驚いている様子が、手に取るように分かった。思わずその様子を想像して、くすくすと笑ってしまう。
 あぁ、やっぱりこうじゃないと。
 「あの……」
 「何よ、もしかして迷惑だったわけェ?」
 「そんなことはありませんっ」
 「開けるんならとっとと開ける!」
 私が口調を荒げたことに動転したのか、電話の向こうでがしゃんという音がした。
 
 「あ、すみません、308号ですっ、番号押してくださいっ」
 泣きそうな声に聞こえるのは、気のせいだろうか。ぴ、ぴ、ぴ、と電子音と共に番号を押した。
 押し終わったら直ぐにキーがピーと鳴った。
 開いたっぽい。そのまま中へと入る。三階だよね。エレベーターで上がるうちに、さっきの黒崎の様子を思い出して、くすくすと一人笑いをこぼした。
 なんだか、押し込み強盗か何かみたい。
 まぁ黒崎にしてみれば普段から怖い鬼上司が、会社休んだら家に押しかけてくるんだから、動揺するなって方が無理なんだろうけど。
 
 私だって会社休んで課長が家に来たりしたら、そりゃ驚くし。あぁ、でも男と女の違いはあるかな。一人暮らしの部下の女性の家を男性上司が訪れる、というのは昨今のいろんな話を思えば、普通はそんなことをする上司はいないだろう。
 じゃあ私はいいのか、っていう話だけど。
 まぁいいや。
 
 そんなことをつらつらと考えてるうちに、足は308号に辿り着いていた。
 こんこん、とノックをする。
 ぎぃ、と扉が開くと、黒崎が顔を出した。
 「チーフ」
 普段はかけていないめがねを掛けていて、雰囲気がちょっと違うのに戸惑った。
 寝巻きでも着てるかと思ったけれど、上は黒っぽいカジュアルなシャツに、下は綿パンツ。意外と大丈夫そう、かな。
 ただ、整えられているわけでもない髪の毛が、わずかに寝起きの印象だった。
 なんて言おうか、一瞬ためらう。けれどそんなことを考えていたのはほんのわずかの間のことだった。
 
 「スミマセンッ!!」
 がばりと黒崎が頭を下げる。
 「え」
 「本当にすみませんでしたっ!」
 土下座でもしかねない勢いで、黒崎が言った。
 
 休んだことを言っているのだろうか。一瞬そう思う。
 「え、まぁ風邪かなんかでしょ? それよりも具合はいいの?」
 「え?」
 黒崎が少しばかり怪訝そうな顔をした。
 「まだ悪いんだったら寝ときなさいよ?」
 「あ、はい、いえ、あの……」
 「何よ」
 「いえ……」
 
 上がってくださいと言われたわけでもないけど、とりあえず入るなと言ってる風でもなかったし、それとなく体をずらして私が入ること予想してるみたいな体勢だったので、中へと滑り込んだ。
 普通の……2Kくらい? 意外ときれいな感じで、物が少なめの部屋だった。
 後ろから黒崎がついてくる。奥の右に……ベッドルームかな、扉が開いてたので、なんとなく目をやって、それから黒崎を振り返った。
 
 「わりときれいにしてるのねぇ」
 「あ、ハイ」
 病気で寝込んでいる人の部屋というよりは、普通に休日に遊びに来た、と言う感じだ。
 黒崎もめがねと髪の毛以外は、そんなに具合が悪いように見えない。うーん、多少顔色は悪いような気もするけど。
 
 「どうしたの、風邪? 体調不良って聞いたけど」
 黒崎が少し口ごもるように何かつぶやいて、目をそらした。
 「? 何?」
 「えっと……スミマセン……」
 だから、さっきから何。
 「あの、怒ると思うんですけど、その」
 「だから何よっ!」
 「いや、あの……」
 その態度の方がよっぽど気になるっていうか、イライラするんだけどっ!
 
 「ふ、二日酔いで……」
 「何ですってぇ!?」
 怒りと驚きと。
 「ああぁ、やっぱり……。スミマセン〜」
 体を折り曲げるみたいに、謝っている。
 「あの、今後は気をつけますので、うわぁ、チーフ、そんなに怒らないでくださ……」
 
 「やかましい」
 ぴしゃりと私は言った。
 わずかにひっと言って、黒崎が黙る。
 そこにあったソファにどっかりと座り込む。黒崎は一瞬ためらった後、斜め前の床にひざをついた。
 ……説教姿勢だな。
 私はかるくため息をついた。

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