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 2.
 しかしながらその後、特にこれと言って変わったことがあったわけではなかった。それは仕事においてでもそうだし、俺の気持ちにしてもそうだった。
 ただ、当たり前のように日々は過ぎて行き、むしろその変わらなさにいささか戸惑いを感じることさえあった。あの時、自分の選んだ選択肢だったとは言え、それでいいのかという自問をしてしまったほどだ。
 
 その一方で、じゃあ俺はどうしたいのかと言えば、それはそれで、自分の気持ちをつかみかねていた。
 もし遼子から何らかのアクションがあったのなら、それは否応なしに答えを出さねばいけなかっただろうし、今現在、ただ一つを除いては遼子と付き合うことに何の支障もないことを思えば、おそらくは俺はOKをしていただろうと思う。
 しかしながら……そのただ一つの障害を乗り越えて、というか気にしないままに、俺からこんな中途半端な気持ちで遼子にわざわざ「付き合おう」というのもまた、バカらしい、というかそこまでするほどでもないか、という気持ちがあるのも事実だった。
 
 ただ一つの障害、というのは職場のことだ。
 咲野と黒崎の件が一応の形では落ち着いたものの、これから先どんな風に流れていくか分からない現状で、もし俺と遼子がそういうことになれば、それはもう、会社から見たら「あのチームは何かあるのか?」という目を向けられることは間違いないだろう。
 単に仲がいいだけです、と言ってしまえばいいのだが、進んで波風を立てることもない、とそんな思いもある。
 結局のところ、何もない、それだけのことだった。
 いつまでもこのままでいられるのだろうかという不安はもちろんあった。だが、まるで夕凪の海のように、俺の心は板ばさみで中途半端にふらふらと漂っているだけだった。


 その日、俺は咲野の代わりに出張で本社の会議へと出向いていた。
 車で二時間半、公共交通を使う者も多いが、俺はもっぱら本社へ行くときは自分の車で出かけていた。
 本社の駐車場にはそんなに空きがないので、近くの駅の駐車場へと車を滑り込ませる。まだ会議までは三十分ほど余裕があったが、そのまま本社へと向かった。

 途中、人事担当をしている友人と出会う。そのまま一緒に歩いた。
 こころなしか、疲れているというか、やつれているようにも思えて思わず尋ねた。
 「仕事、きついのか?」
 「あぁ、まぁ今はちょうど一番きついかな……ほら、例の研修センター」
 「あぁ」
 「今日発令だから」
 「え? そうなのか?」
 「うん、やっとここまで来たよ」
 帰ったら貼ってあるのだろうなと思う。
 彼の顔は、少しほっとしたような、安堵の表情を浮かべているように思えた。
 
 会議は朝の十時からと、昼食をはさんで一時から、終了は三時の予定だ。スムーズに終われば、夕刻のラッシュ具合にもよるが、まだ会社にも人が多く残っている段階で戻れるだろう。
 空はわずかに薄雲がかかっており、夜には崩れると言っていた。わずかにそよぐ風も、ぬるくて少し湿っている。なんとなくやりきれない気分のまま、本社のドアをくぐった。
 
 会議はそんなに重大なものではなかったし、季節柄切羽詰った議題があるわけでもなく、のんびりと進んでいった。
 ただ、どことなくざわついた感じがあったり、普段はあまり見かけない、机の下でこっそりメールをしている人の姿がある、ということは、件の人事がらみなのだろうか。
 通常にそんな雰囲気だったなら必ず一喝が入るはずの本社の営業部長も、今日ばかりはわずかに苦笑して、イヤミを一言言っただけでそれ以上は何も触れなかった。
 
 うちには関係ないさと思っていた俺の携帯電話にメールが入っていることに気づいたのは、昼食の時のことだった。
 チームの女の子からだった。そしてその内容は、俺を動揺させるに十分だった。
 よりにもよって、遼子が研修センターの、それも役付きに異動になっている、というのだ。
 まったく想像していなかったその知らせに、俺は思わず何度も読み返した。
 遼子が主任で行くこと、チーフ(咲野のことだ)に訊くとそうだと言われたこと、遼子は休んでいてメールを送ってきた本人は全然知らされていなくて、俺は聞いていたかと、長々とつづられていた。
 とりあえず聞いていないこと、遼子は何をしてるか知ってるかと、それだけ返して俺は午後の会議の席へと戻った。
 
 途中、メールの着信があったことには気づいたが、さすがにそれを会議中には見る気にはならず、悶々と、あるいはほとんど上の空で午後の会議は終わった。他の連中も多かれ少なかれ似たような状況だったことを思えば、こんな日に会議をわざわざやった意味はあったのだろうかと、そんなことを思わされる状況だった。
 
 会議が終わって、メールを開く。会議の終了の言葉と同時に、我慢できないくらいの勢いで携帯を取り出してしまった自分に気付いて、一人苦笑したが、周りの人間も多かれ少なかれ、自分のことに手一杯で、誰もそんな俺に気付いた者はいないようだった。
 メールの返事には、遼子は旅行に行ってるらしいとそれだけで、その他はとくには触れられていなかった。
 
 帰り道、あれこれと考えながら車を走らせる。
 今まで当たり前のようにいた遼子の存在が、まもなくどこかへ行ってしまうのだと考えると、急に焦ってきた。
 あれこれうだうだ考えていたのも、結局同僚であるという安心感というか、常に一緒にいるものだと思っていた甘えがそこにはあったのではないかという気がしてくる。
 結局たまらなくなって、俺は遼子に直接電話を掛けた。
 
 もしかしたら出ないかも知れないなどと思ったのだが、あっさりと遼子は電話口に出た。
 「異動の話、聞いたよ」
 「え? あぁ」
 それ以上、遼子は何も言わなかった。
 「知らなかったから、びっくりした」
 「すみません」
 「あやまることじゃ、ないけどな」
 「……」
 
 「希望してたのか? ……聞いたことはなかったけど」
 「はい。以前に社内の研修で、人事の方に会ったときに、薦められたんです。やってみたくないかって」
 「じゃあ、おめでとうと言えばいいのかな」
 「……そうですね」
 言いながら、自分の中のもやもやが、イライラに変わっていくのが分かった。
 
 何も知らなかった。聞いていなかった。遼子がわざわざ俺にそんなことを相談する必要も報告する義務も何もありはしないのに、彼女が自分の将来を考えて希望を出すことなんて当たり前で、むしろ誉めてやるべきことなくらいなのに、俺はそれを素直に受け取れなかった。
 まるで置いてけぼりをくらった気分だった。
 だが、もちろん俺の感情はお門違いもいいとこだ。
 こんな意味の分からない子供じみた感情を遼子にぶつけないでいるくらいの冷静さは、まだ俺だって持っていた。
 
 「今、どこにいるんだ?」
 旅行に、ということは結構遠くなのかもしれない。そんな思いで訊いたのだが。
 予想に反して、遼子は近くにいた。会社からなら片道で二時間もかからない距離だ。
 「なんでそんなとこに」
 「行っちゃうと当分忙しいだろうなと思って、ゆっくりしたかったんです」
 「そうか」
 
 単に話を変えるだけのつもりで訊いたことが、やっぱり話題は異動に戻ってきてしまって、俺は少し自嘲した。
 途切れた会話に、遼子も何か思うところがあったのだろうか、こちらから尋ねたわけでもないのに
 「ここ、海もきれいだし、国民宿舎だから安いし、今オフシーズンで静かで、いいですよ」
 と言った。
 「そうか、まぁ、ゆっくりしてこい」
 心にもないことを言う。 
 「はい。ありがとうございます」
 
 俺は電話を切った。
 会いたいと思った。だが電話口でそんなことを口にしたところで、遼子を困らせるだけだと思った。それに何より、電話ではなく直接言うべきだろう。いや、直接っていうことは、すでに会ってるのか。会って、……今の自分の気持ちをぶつけたいと、それを思った。
 
 会社へと戻る。夕方やはり社内は落ち着かない空気が漂っていて、何度あってもやはり異動と言うのは慣れないものなのだなと、そんなことを考えた。
 咲野に会議の報告をして、定時には会社を飛び出した。
 自分の気持ちが加速しているのを感じていた。
 遼子がいなくなるから、惜しい気になっているだけじゃないかとちらりと思ったが、それでもかまわないと思った。
 それはそれだ。いなくなるから、今を逃したらもう、取り返しが付かないかもしれないじゃないか。
 

 目的の温泉は、遼子の言ったように、たしかに静かで、そして少し寂れていた。
 国民宿舎などは当然一軒しかないので、簡単に辿り着く。想像と違って、その建物は比較的新しく、モダンな造りのきれいな建物だった。
 
 カウンターへと向かう。
 「すみません、一人、いいですか」
 「はい、空いてますよ」
 すんなりと宿泊の手続きを済ませ、俺は自分の割り振られた部屋へ向かおうと、荷物を持って振り返った。
 ……そこに、遼子が立っていた。
 
 呆然とこっちを見ていた。少し前から俺だと気づいていたのだろう、俺と目が合った瞬間、はっと我に返ったようにきびすを返し、階段を昇っていく。
 「遼子?」
 声をかけた。だが、聞こえないのか、あるいは聞こえない振りをしているのか、遼子はそのまま階段を昇っていった。
 追いかけるのはあまりにもばつが悪いような気がして、俺は平静を装い、自分の荷物と共にエレベーターへと乗り込んだ。
 
 一旦部屋に入り、荷物を置いて、携帯電話を取り出した。
 しばらく逡巡する。だが、心のどこかに、遼子はきっと出てくれるだろうと言う確信めいたものがあり、俺はそれに後押しをされるように、遼子の番号を押した。
 
 「もしもし。俺だけど」
 「はい」
 小さい声だったが、間違いなく遼子の声だった。
 「部屋、どこ? 話がしたい」
 「……どうして」
 「どこ?」
 遼子の問いには答えなかった。こんな小さな機械を間に挟むのではなく、直接言いたいと思った。
 「302、号室です」
 俺の気配を感じ取ったのか、遼子は素直に部屋番号を口にした。
 「うん、分かった」
 同じフロアだった。どちらも一人なので、部屋のタイプが似たようなものになる分、近くだったのかもしれない。
 
 ものの、十秒ほどだった。302の番号を確認し、俺はノックする。携帯電話は、まだ繋がったままだった。
 「俺。……開けてよ」
 部屋の外から、声をかけた。開けるということは……俺はその意味を考える。開けてくれれば入っていいということだ。
 小理屈かも知れない。でも、そういうことだと思うことにしよう。
 少しだけ、間があった。その瞬間にも俺の頭の中を色々なことが駆け巡った。
 
 小さく、ドアが音を立てた。
 「どうして、ここにいるんですか」
 遼子の声。
 「来たかったから来た。だめか?」
 「……」
 さっきちらりと見たときの通り、遼子はすでに部屋着になっていて、それが普段の印象とは違って見える。
 「今回の異動の件もそうだけど。……遼子に言いたいことがあったから、来た」
 一歩前へ出ると、遼子は一歩下がる。部屋の中に完全に入ってから、俺は言った。
 
 「俺は遼子のことを好きだと思っている。遼子は?」
 小さく息をのむ音がした。俺はじっと遼子を見つめる。わずかに首が揺れ、小さく「ウソです」と呟いた。
 
 「嘘? なんで」
 「だって、北川さん、チーフのこと」
 「まだ、そんなことを……」
 思わず俺は苦笑した。この期に及んでここまで来て告げた言葉を信じてもらえないなんて。
 「いいと思ってたのは事実。でもそこまでじゃなかったし、今の俺は遼子の方がいい。なんでそこにそんなにこだわるわけ?」
 「……だって聞いちゃったんです」
 「は?」
 「前に何かの打ち上げのとき、北川さんがチーフに言ってるの」
 
 俺は思わず首をかしげた。あったっけ、そんなこと。 
 「だって、あんなの聞いちゃったら」
 羞恥なのか、罪悪感なのか。泣くギリギリの所で、遼子は必死に堪えているように見えた。あぁもう。泣かせたくて来たわけじゃないんだけど。俺は考える。どうしたら、笑ってもらえるんだろう。
 
 「あのさ、男ってのはねぇ、基本的にハンターなわけ」
 遼子の顔がちょっとゆがむ。泣きそうな顔はそのままだ。
 「今のは笑うところなんだけど」
 「すみません」
 遼子の目がすっと逸らされて、横を向いた。その様子に、俺は煽られる。
 「笑えって言ってんの」
 俺は遼子の両側に手を置いた。軽く遼子が首をすくめた。
 
 「そういうことを話してたのは事実かもしれない。覚えてないけど。そういう気持ちが少しはあったことは本当だから。でもそれはそれ。今の俺は遼子のこと好きだなーと思ったからこうやって来たわけだし、こうやって口説いているわけだけど、それでもまだ不服?」
 「そういうわけじゃっ」
 「じゃ、なんだよ」
 「なんでも、ないです」
 最後、消え入りそうな声で遼子が言った。
 
 そのまま、俺は遼子の唇を奪った。一瞬逃げるみたいに顔を背けたけれど、俺はそれを許さなかった。なんどか、角度を変えて唇を押しあてた。
 最初、いくらかこわばっていた遼子の顔が、いくらか緩む気配があった。
 俺はゆっくりと舌を差し入れる。拒まない。
 
 「遼子は、俺のことどう思ってんの」
 聞かなくてもいいけど、出来れば聞きたいと思う。
 囁いた瞬間、遼子の顔がいくらかこわばり、でもそのまま小さくため息のような息を吐く。
 「教えて」
 「好き、だもん」
 
 その言い方は少し子供っぽくて、俺は笑った。恨めしそうな顔の遼子を見下ろす。俺は遼子の頬を撫でる。そこにある感触を確かめるように。
 「俺と付き合って欲しい。いいか?」
 「はい」
 その言葉を合図にするみたいに、俺はもう一度遼子に顔を重ねた。ぎゅっと抱きしめる。これが遼子の体だ、とそんなことを思いながら、存在を確かめるかのように、服の上から抱きしめた。
 
 「いいな」
 遼子はもう、何も言わなかった。ただ、俺の首筋に唇を埋める。
 いくぶん、萎縮しているようにも思えたが、俺の自制心もそこまでだった。
 遼子をぐいっと抱き上げる。お姫様だっこ、っていうやつだ。
 遼子は俺の腕にしがみついていたけれど、抵抗や逃げるそぶりはなかった。
 
 ベッドに下ろす。作りの簡単な部屋用の浴衣は、すでに幾分か乱れて、はだけていた。
 下着も付いていない。当たり前だ、まさか俺が来るとは思っていないのだから。
 わずかに恥かしそうに視線をそらせる。俺はためらうことなく残っていた着衣を剥ぎ取り、上へとのしかかった。
 顔中にキスを降らせる。わずかに甘い香りがそこかしこから漂ってきて、それはなんとも幸せな気分にさせた。
 
 遼子の肌は白くて滑らかだった。指を這わせる。ときどき、ぴくん、と跳ねるところに俺は口付ける。
 「あっ……」
 堪えきれずに声がこぼれる。俺はその声を拾うみたいにさらに遼子を責めた。
 
 俺自身、そんなに我慢も出来そうになかった。あまりにもがっついていると思ったけれど、遼子と一つになりたくてたまらなかった。
 足の間に指を滑り込ませると、すでに十分に緩み、溢れている。それでも確認するかのように指を差し込むと、遼子の眉間にしわがより、鼻から悩ましい声がこぼれた。
 「きついか? ……我慢できない」
 「だいじょうぶ、です」
 
 俺は自身の昂ぶりを押し付けた。想像以上に滑らかに俺は遼子の中へと押し入ることが出来た。
 「北川さんっ」
 小さく名前を呼ばれた。
 「うん」
 強く抱きしめる。遼子のなまめかしい喘ぎ声が、何度も響く。俺の吐く息と、遼子の声がやがて重なって、そして果てた。


 「北川さん」
 わずかに俺を呼ぶ声。半ば無意識のままに手を伸ばす。
 「もうっ、起きないと……」
 え……?
 
 その声に急速に覚醒し、俺は手の中の暖かいものを抱きしめたまま、枕もとの時計を見上げた。
 「……ホントだ」
 
 今日は俺は休みではない。
 ここからまともに会社に出勤しようと思うと、いつもの朝よりも相当早くに出発しなければいけないのは自明のことだった。
 「休もうかな」
 冗談半分に口にする。
 遼子は大きく目を見開いた。
 「冗談だよ」
 「……もう……」
 小さくため息をつく。
 「もう、逃げないから、大丈夫です」
 指が、俺の指に絡んでくる。その仕草が愛しい。こんなに切羽詰るまで動けなかった自分を少しだけ悔やんだ。
 もっと早くに、このぬくもりを手にすることが出来ていたかもしれない、そう思った。
 
 とは言え、そんなことを今さら悔やんでもしょうがないことで。
 あれは必要な時間だったのだろうと、そんなことを自分に言い聞かせた。
 
 でも、もう風は止まらない。
 
 ――――― Fin.

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