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1.

 「結婚?」
 俺は焼き魚をつついていた箸を一瞬止め、その言葉を発したスタッフの顔を見た。
 その表情をどう捉えたのだろう、彼女は
 「そうなんですよ。聞いちゃいました」
 と、まるで国家機密でも話すかのような表情で続けた。
 会社近くの定食屋。お昼時、俺はチームのメンバー数名と食事をしに来ていたその席のことだった。
 
 「ほら、チーフ、去年いきなり指輪、付けてきたじゃないですか。相手、黒崎くんだって……」
 俺がしばし呆然としているのは、まったく何も聞かされていなかったからだと勘違いしたらしく、話は事細かに続いていく。
 「いつの間にか、そんなことになってるとか、誰も知らなくて」
 俺は聞いている振りをしながらも、実際にはほとんど耳には入っていなかった。
 
 咲野――それは俺にとっては、同い年の気心の知れた友人でもあり、ライバルでもある、目下俺の上司の女性で、この場の話題の中心人物でもある。
 咲野が俺「たち」の部下の黒崎と付き合っている、というのは実は以前に聞かされていた。
 そして「プロポーズされた」ということも、咲野は何も言わなかったけれど、さっきの子が言っていた「いきなり指輪」事件の時に、黒崎から聞かされていた。
 
 ただ、それは……おそらく二人の間の口約束みたいなものなのだろう、と勝手に思っていた。というのも、俺がそれを聞いたのは、今からもう、一年も前のことだったからだ。なんだ、本当だったのか、というなんとも言いがたい思いと、意外に早かったなぁ、というのが今の本音だった。
 「もう、びっくりですよねー」
 俺の前で、まだ話は続いていた。
 「私、チーフはてっきり北川さんだと思ってたのに」
 
 ゴフッ。
 飲み下しかけていたほうじ茶が、口と喉の境目でいやな音を立て、俺はその液体にむせた。
 「っ、ん? 何?」
 「北川さんじゃ、なかったんですか?」
 その言葉に、数名の視線が俺に突き刺さる。そんなことを考えていたのは、彼女一人じゃなかった、ということか。
 「おいおい、勘弁してくれよ〜」
 わざと冗談めかしておどけてみせる。確かに、俺はかなり咲野のことを気に入っていた。もちろん、黒崎との話を聞いてからは、特にそれ以上意識することもなかったのだが、そんなことまで、見透かされていたなんて。
 まぁ女の子の観察力ってのはすごいからな。そんなこともあるかも知れない。俺は少しばかり気を引き締める。
 「ま、好みだったけどな」
 にやりと笑ってそう言うと、くすくすと笑いが起こった。
 自分自身はっきりとは掴みかねていないままに生煮えだった気持ちを、そうそう簡単に決着をつけられてたまるか、という思いもあるし、一応相手は上司なのだから、変な噂を立てられてもお互い困る。
 
 「あ、やっぱりー」
 と、さりげない突込みが入って、その話題はそこで終わった。

 帰り道。
 「そうなんですか?」
 「は?」
 突然、後ろから話しかけられた。今日のメンバーの中にもいた、遼子だった。
 俺の中では、遼子は普段あまりそういう話題には参加しないイメージがあった。だから、突然、それも後ろからそんなことを言われても、一瞬何の話か分からなくて、ちょっと間があった。
 「咲野チーフの話、ですよ」
 「え? あ、あぁ」
 そう、というのは何の話なんだろうと、それでもまだ、俺には掴みかねていた。
 「婚約の話?」
 「いえ。……好みだったって話です」
 婚約の話? と聞き返したとき、遼子はちょっとだけ困ったように眉をひそめた。大人しく目立たないタイプではあるが、意外に整った顔でもあるので、そういう風な顔というのは急に女っぽく、大人っぽく見えて、俺は一瞬目を奪われる。
 
 「ま、俺はチームのみんなが好みだからな」
 一呼吸置いて、そう答えた。遼子の聞きたい答えは、多分そんなものじゃないのだろうと思いつつ、その一方で普段ほとんどそういう話に加わってこない彼女が、このネタにわざわざ自分から食いついてくるなんて、という意外性もある。
 「遼子も、瑞葉もよーちゃんも好みだよ」
 わざとその場にいた全員の女性の名前を挙げた。うん、俺はそういうキャラでいいから。
 
 ふふっと遼子が笑う。
 「なんだよ」
 「そうですよねぇ。北川さんだもん」
 思ったとおりの捉え方をしてもらえたようで、俺はほっとした。実際、みんなのことを好きなのは嘘ではないし、咲野のことをそこまで思っていたりしたわけでもない。ただ、なんとなくいいなぁと思っていたのは事実で、でも考えてみればそれは今挙げた三人でも別に構わないといえば構わないのだ。ただ、たまたまそれが咲野だっただけの話で。
 ――なんか俺、こだわってるなぁ。
 
 「まぁあの二人に関しては、別に悪い話じゃないんだし、うちとしては見守っていくしかないんじゃない?」
 「ですねー」
 「あ、もしかして黒崎好みだった?」
 矛先を、俺から遼子へ、咲野から黒崎へと変える。
 「え? ムリムリっ! ありえないですよー」
 大爆笑と共に、遼子が断言した。そのあまりの断定の仕方に思わず俺もつられて笑った。
 「ひでっ、そこまで言うこともないじゃん」
 「だってホントだもん」
 
 俺たちの会話が、何人かには聞こえたらしい。
 振り返って、数人が笑った。
 「黒崎かわいそー」
 男連中の声に、遼子が
 「幸せなんでしょ? いいじゃん、それで」
 と口を尖らせた。その声に、また笑い声が起こった。
 

 正式に咲野の婚約が公表された、というかチームのメンバーに伝わったのは、その昼食から三ヶ月も経ってからのことだった。途中一回、あまりにも噂の時期が長いので、咲野にそれとなく聞いたことがある。なんでも、こういう「近い」職場結婚で、しかも女の方が上司な上に会社にとって必要性が高い、というカップルは前代未聞とかで、上とか人事が微妙だったのだそうだ。
 結局咲野は押し切り「業務に必要のない人事異動は行わない」という言質を勝ち取ったというのだから、大したものだと思う。
 
 しかもその際「黒崎と離れたくなくてそういうことを言っている」と勘違いした人事の次長が「それは『必要な人事異動は行う』ということだぞ?」と(言わなきゃいいのに)言ってしまって、「そんなことは付き合っていようが結婚していようが当たり前のことです」と啖呵を切ったというんだから、なんというか、戦う女だよな。
 ま、黒崎が咲野の下ですくすくと育っているのは本当のことだし、今のところ咲野以上に黒崎を育てるのに向いていそうな人材も、客観的に見て見当たらないことを思えば、咲野としては当然と言えるかも知れない。
 
 「ごめん、もしかして心配かけてる?」
 「いや、それほどでもないよ」
 咲野には一応そう言ったが、それなりに心配を掛けているのは本当の所だった。
 「一回、みんなで飲むか」
 インフォーマルにでも、公表しておくか? という俺の提案だった。
 「そうね」
 ちょっとだけ考えるみたいに間があって
 「お願いしてもいい?」
 と咲野が言った。
 それから十日ほどして、俺がセッティングした飲み会。その日、咲野はガッツポーズと共に現れ開口一番
 「勝ち取ったわよ」
 と宣言したのだった。
 
 結局その日の飲み会は、チーフアンド黒崎おめでとう会に一瞬にして変貌し、最初はからかいの対象だった黒崎も、実は意外に受けて立ち、ますますメンバーは盛り上がり、後半になると、もはや破茶滅茶な様相を呈していた。
 
 「あー、みんな盛り上がってるなぁ」
 後半、すっかりノリについていけなくなった俺は、心持ち、輪の中心から外れて様子を眺めていた。
 「ホントですね」
 俺の誰に言うともないぼやきのような独り言を聞きとめて、反応したのは遼子だった。
 「みんな、チーフとか黒崎くんのこと、大好きですもんね」
 そういう遼子も、少し嬉しそうに目を細めて、二人の様子を眺めていた。
 「あはは、そうだなぁ……ま、半分くらいは、ただ騒ぎたいだけかもしれないけどな」
 遼子のように素直には喜べないというか、照れくさい俺としては、思わずそんなことを言ってしまう。遼子が俺を振り返った。
 「やっぱり、寂しいですか?」
 「そりゃまぁ、な」
 思わず言ってから、固まった。遼子の真意を諮りかねた。
 だが、遼子はその先こちらを見ようとはしなかった。
 
 「って、どういう意味だ?」
 結局俺は遼子を問いただすかのごとく、尋ね返した。
 「え?」
 多少の口調の荒さというか苛立ちのようなものを感じ取ったのだろうか、遼子は一瞬怯えたような目をして
 「でも」
 と言った。
 「ん?」
 遼子を非難しているわけではない、ということは分かって欲しくて、とりあえず口調を和らげる。
 「北川さん、結構チーフのこと、好きだったでしょ」
 小さな、呟くような声。それは俺に尋ねるというよりも、淡々と事実を述べているといった感じの口調だった。
 
 「んなこと、ないって。前にも言っただろ?」
 俺はそう返した。だが、それは遼子にはあまり届いていないように思えた。
 「なんだ、お前もしかして俺に気があるのか?」
 もちろん冗談半分の言葉だった。だが俺は言った瞬間に後悔した。遼子の頬がしっかりと赤く染まっていく様子が見えたからだ。
 
 「何、言ってるんですか」
 遼子がすっと視線を外す。俺は想像を超える成り行きにいささか動揺して、そのまま「何も気づかなかった振り」をした。
 「だよなー」
 「そうですよ、もう」
 俺の言葉にほっとしたのだろうか、いくらかの減らず口を叩くみたいに、遼子は俺に切り返して、その場をすっと離れていった。
 
 遼子の後姿を見送った俺は、想像以上に動揺していたらしく、手に持っていたグラスがふらふらと揺れているのに気づいた。
 遼子が、俺を?
 全く想像したこともなかった。いや、だからこそ冗談ででもあんな言葉が出てきたのだ。少なくともそうかも知れないと思っている相手にそういう冗談を言えるほど、俺はひどい人間でもない。
 なかったことにして流してしまったのは、果たして良かったのか。そうは言ってもお互い大人なわけで、仕事に支障が出るとか、そんなこともないだろうけれど。
 
 はぁ、と一つため息をついた。手の中のグラスは、すっかりだらけたように、ぽとりとしずくを落とした。氷はすっかり融けていた。
 俺はしばらくその様子を眺めた後、気を取り直して、再びみんなの輪の中へと戻った。
 

 咲野と黒崎の婚約が発表されたと言っても、社内では何が変わるわけでもなかった。咲野は仕事を続けることを前提に会社と交渉に当たったのだし、少なくとも会社にとっては結婚ということは人事担当者にとってはいざ知らず、他のメンバーにとっては紙切れ一枚の話にしか過ぎなかった。
 
 とは言ったところで、多少はポスト咲野の雰囲気も出てくることも、これはこれで仕方がない。
 妊娠、出産となれば、多かれ少なかれ、仕事への影響はあるわけだし、実際咲野が仕事一筋っぽい感じで来ていたから、その先をあまり考えずに日々の業務を行っていた、という部分はあったのだ。
 あえてあまり見ないように、考えないようにしてきたことを、今回の件で「もう少しは考えてみようか」という雰囲気になったのは、会社としては悪いことではないだろう。
 けれどそんな「現状が変わること」には、いささかの痛みを伴うことも事実だった。
 
 また、一方で、俺たちの部門に直接は関係はないのだが、会社の組織が一部変わるというような話もあった。
 今までは正社員と契約、派遣の社員の比率が圧倒的に高かったのだが、ある程度パートへの切り替えも行おうかとか、派遣の比率を上げようかと言った、このご時勢、どんな会社でも避けては通れない課題が、俺たちの会社でも議題にあがるようになったらしい。
 その為の、全社的な教育機関のようなものを作る、という話が浮かんでいる、ということだった。
 
 上記の流れで出てきた話なので、当然それ用の人材を新規に採用するはずはなく、社内での異動でまかなうであろうことを考えれば、その異動の影響を受けそうな部門にいる人間はおよそ心おだやかではいられないことは、容易に想像がつく。
 そんなこんなで、なんとなく慌しく、それでいて何も変わらないような日々が過ぎていくのだった。
 
 「あれ、どこ行った、あれ」
 その日、俺は急遽入った会議の資料を探して、ばたばたとしている所だった。
 咲野が急な出張で、昨日からいないというのは上も知っているだろうに、突然確認したいことがあるとか、わけの分からない理由で呼び出されることになった会議だった。
 
 もちろん、内容は俺だって把握してはいるものの、いきなり大勢の前で説明しろといわれれば、それはやっぱり緊張する。
 資料だって、とりあえずは一式そろえないといけないし、説明しろと言われれば、それなりに流れに沿ってやるべきだろう。
 
 「あれってなんですか」
 「リバティマートの見積のときに付けて出した、FSPの概要の……」
 
 「あー、これですね?」
 「お、よく分かったな」
 「……北川さんは、もう少し情報を整理された方がいいと思いますけど?」
 一番に資料を出してきたのは、遼子だった。クリアファイルに、同時期の各種プレゼンに使った書類が、きちっと整理されていた。
 「うちの書庫みたいなもんだな」
 「普通でしょう?」
 言い方はおおよそつっけんどんだが、それでもその書類を手渡してくれた。
 
 「すげー、よく分かったな」
 他のメンバーがぽつりと呟いた。
 「え? 今のは分かるでしょう……?」
 「いや、俺は分かんなかった」
 「そうかなぁ」
 
 会話を聞きつつ思う。遼子は大体において、勘がいい。それは性格的なものかと思っていたのだが。
 もしかして、俺にだけ、だろうかとそんなことを少しうぬぼれてみる。この前のことはお互いになかったことになっているので、それが逆に俺の心をそわそわと落ち着かないものにしていることは分かっていた。
 告白されたわけでもない。付き合おうという話があるわけでもない。まるっきり、なかったことになったのは、果たしてあれで良かったのか。
 
 俺に渡すだけ渡して、自分の用は済んだとばかりに自分のパソコンに向き直った遼子を眺め、俺は人知れず小さなため息をついた。

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