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 最近、ちょっと気になっていることがある。もちろん、志織さんのことで、だ。
 
 俺たちの関係は、とりあえず、成り行きというか、行き当たりばったりで始まったにしては順調だ。いや、順調すぎる、と言ってもいいかもしれない。
 当初、俺は完全に「やられキャラ」の様相を呈していたのだが、一念発起(とは、言わないか)で、攻撃に転じたところ、なんというか、ま、最近は普通に仲がいい。
 あれで逆切れ(?)されてたら、奴隷生活に転落するんじゃないかと、一瞬、そんなことまでちらりと考えたのが嘘みたいだ。
 ……奴隷生活、は言いすぎかな。でも気持ち的には近いものがあったぞ。
 
 で、そんな俺がふと思う。
 なんで、俺なんだろう?
 
 いや、もちろん、成り行きでそうなったことは分かってる。
 でも、ただ、成り行きでなっただけでもない気がする。
 だって申し訳ないくらい、志織さんは俺のことを好きでいてくれるみたいだから。
 
 「あの」夜まで、志織さんは俺のことなんて、なんとも思ってなかったと、それだけは自信を持って言える。でなきゃ、失恋したなんて、思い込むわけがない。
 でも、「あの」夜に、俺に惚れてくれるほどの何かがあったとも、実のところ思えるわけはないんであって。
 だって俺、ヤラれただけだよ?
 ――自分で言って、悲しくなってきた。
 
 で、目下少なくとも仕事では役に立つ男になろうと、鋭意努力中なわけだけど、このところ、その肝心の仕事が急にどっと増えてきて、志織さんが……なんだか痩せてきた。
 
 俺たちの仕事は、この時期ちょっと忙しくなる。
 理由は、ま、普通に波なんだけど、どういうわけだか、この時期に締め切りのある各種リサーチの報告書が増えるんだよね。
 昨年もそうだった。まだ新人の俺は、ふと気付くと仕事が増えて、気付くと終わってたって感じだったのを覚えてる。
 でも今年、少しは余裕がある。二年目なんだなぁ。成長してるぞ、多分。
 

 そんなある日のこと。
 「志織さん、ごはん食べてる?」
 
 どうにも我慢がならなくて、とうとう俺は聞いた。志織さんは、素っ裸のままで、俺の腕の中でうとうとしていた。
 「え? ……何、急に」
 「食べてます?」
 「うん、まぁ適当に……」
 そう答えた志織さんは、少しだけ、でもはっきりと狼狽していた。
 食べてないんだな。俺は確信する。まったくこの人は。
 付き合い始めた頃に、俺に説教したのは、どこの誰だ。微妙に視線を合わせようとしない志織さんの顔を、強引に覗き込んだ。
 「志織さん?」
 
 気まずそうに、視線をそらした。
 「ちゃんと、ごはん食べてます?」
 「――つい、後回しにしちゃって……」
 小さく、ごめん、と言った。俺に謝られることじゃないと思うけど、まぁそれはいいや。
 俺は小さくため息をつく。
 そんなことだと思った。
 回す腕に力をこめる。ここのところ、急に薄くなった肩が、折れそうな気がした。
 「僕が、つくりに来ますから」
 「え?」
 「ごはん」
 「ちょ、ちょっと待ってよ」
 「困りますか?」
 「こまるじゃなくて、ダメ」
 「なんで?」
 「陸海だって、陸海の仕事あるし、私ばっかりそんな……」
 「僕のことはいいんです!」
 志織さんの言葉をさえぎるように、俺は言った。これ以上、細く、小さくなられたら、抱き心地が悪くなるじゃないか。って、そんなことは言えないけれど。
 
 「志織さん? 前に僕に言ったこと、忘れました?」
 志織さんは黙ってしまった。まだ一月も経ってないんだから、忘れてるわけもない。
 偉そうかな、と思った。でも、言わなきゃ。
 「人に心配かけるようじゃ、ダメですよ」

 「……じゃ、週末だけ」
 志織さんが言った。
 
 俺としては、毎日泊り込んでもいいくらいの気持ちなんだけど、志織さんはそれは頑なに拒む。やっぱりきっちり線引きをしたい、ってことなんだと思う。
 「分かった」
 俺もそれ以上は言えなくて、そう言った。
 志織さんは、まだ何か言いたそうに俺のことを見上げている。
 「?」
 「……なんでもない」
 気になる。
 「言って?」
 「いい、なんでもない」
 「気になるんですってば」
 「……ありがと」
 
 思わずぷっと吹き出した。あーもう、かわいい。そんな俺を、少しだけ恨めしそうな顔で、志織さんは見ている。
 たまらなくて、俺は頬にキスをした。
 

 それからまもなく。
 その日志織さんは、前の日からの出張でいなかった。そんなにしょっちゅうあるわけでもないんだけど、二、三ヶ月に一回くらいは、研修や、色々な用事で、志織さんは出張する。
 俺はまだ、一度もない。
 そんな時、自分と志織さんの差を、ちょっと感じさせられたりはする。
 ……仕方ないんだけどね。

 昼下がり、俺は黙々と仕事をしていた。と、そんな時。
 硬いもので、ごん、と軽く殴られ、振り返ると北川さんが険しい顔で立っていた。
 「黒崎、お前ちょっとたるんでないか?」
 「えっ!?」
 実のところ、そんなはずはないんだけれど、北川さんがそう言うからには、俺、何かしたかな。
 「ま、このくらいのケアレスミスは、お前の場合、いつもだけどな」
 
 志織さんほどじゃないけど、北川さんも、結構厳しい。
 「えっと……」
 「最近、よくやるようになった、ってチーフとも話してたってのに、チーフがいないと、これかよ」
 どすん、と机の上に一冊のファイルが置かれる。俺、これで殴られたんだよな。
 これ以上、バカになったらどうするんだ。
 とはいえ、そんなコトは口には出せない。
 「はい?」
 期間間違いとか、誤字とか……一瞬に頭の中を色々な想像が駆け巡るけれど、目の前の資料を見て、それは違う、と頭は冷静になる。
 俺が作った資料じゃない。それに最近は――特に誤字脱字は――神経質なくらいチェックしてるし。
 
 「これ、綴じ方、逆」
 「え?」
 
 昨日、北川さんから言われて、俺が整理したんだけど。んなバカな。
 「概要が一番後ろに来てるじゃないか」
 気付いていない俺に、呆れたように北川さんが言った。
 「え?」
 「ほら」
 
 ……。
 「申し訳ありません」
 俺、何か考えてたのかな。なんで一番上にあるものを、一番下に綴じちゃうんだろう。些細なミスだけに、余計に落ち込む。
 「ホンっと、ツメの甘い男だな」
 からかい半分の口調だった。でも、その一言は胸に刺さった。
 返す言葉もないし。
 「そんなだと、惚れた女にも、逃げられちまうぞ」
 
 グサ グサ
 志織さんのことを言われているわけではなくて、一般論で言われてるんだと思うけど、それを北川さんに言われるのは、本当に色んな意味で、キツい。
 「言わないでくださいよ」
 「んだよ、じゃ、もうちっとは、まじめにやれ」
 「はい、すみません」
 北川さんの言うことはもっともで、俺は結局墓穴を掘った気がする。
 「ま、この程度のことは、いちいちチーフには言わないけどさ、……頼むぞ?」
 「はい」
 ばしん、と背中を叩かれた。
 「お前だって、さすがにそろそろ、一人前と言われたいだろう?」
 「もちろんです」
 「だよな」
 
 だよ。だから頑張ってんだよ。でも……こんなミスをするんだもんなぁ。
 今日ばかりは、志織さんがいないのが、ちょっとだけ救いだった。
 こんな自己嫌悪の日には、少しだけ、冷静になる時間が欲しかった。
 

 翌日金曜日、志織さんが帰ってくる。
 ……出張ってことになれば付き合いもあるだろうから、食事はしてるだろうけど、顔色悪いぞ。
 帰るなり、課長とミーティングに入って、一時間出てこないし。
 
 俺に出来ることがあるわけじゃない。でも、やっぱりあれこれと心配をしてしまう。
 結局、終業時間になっても、今度は北川さんとミーティングに入ってしまって、ろくに顔も見れないままだった。
 
 とはいっても、今日は志織さんの部屋に行くことになっている日だ。
 こんな感じになってから、預かっている鍵を握り締める。今の自分に出来ることと言えば、仕事で迷惑をかけないことと、美味しいご飯を(と言っても知れているものだけど)作ってあげることくらいしか、ないから。
 
 一旦自分の部屋に戻って、着替え類を取って、途中スーパーに寄って……
 俺って主夫みたい、とふと思ったけど、志織さん相手ならそんなに嫌でもないか、っていうか……主夫でいいから置いてくださいって、そっちの方が近いかなと思った。
 そんなこと言ったら、叱られるだろうなぁ。
 正直、大丈夫だろうと思っている気持ちはある。
 でもどこかに常に「俺って志織さんに必要とされてるのかな」って疑問もつきまとっていて、何かある度に、それがちらり、ちらりと顔を覗かせる。
 
 「ただいまー」
 志織さんが帰ってきたのは、十時を少し回ってからだった。
 帰る前に連絡は貰ってるので、ご飯は出来立て、準備万端、だけど。
 声はしたのに、姿は見えず。玄関先まで行くと、上がり口に座り込んでいる志織さんの姿。
 「わ、どうしたんですか」
 「……疲れた」
 あー、びっくりした。
 でも、志織さんは動こうとしない。
 「大丈夫ですか?」
 「あんまり大丈夫じゃない」
 
 とりあえず、志織さんと同じ目線まで下がる。
 「担いでいきましょうか?」
 「いい」
 ちぇっ、と思ったものの、志織さんは相変わらず動こうとしなかった。
 「陸海ー」
 手が伸びてくる。俺はよしよし、ってするみたいに、抱きしめて頭を撫でる。
 気持ちよさそうに、志織さんがもたれてきた。
 しばらくそのまま。それからよいしょっと、志織さんは立ち上がった。
 「年寄りくさいね」
 少し照れたように笑った。
 

 帰るなり、座り込んでしまった志織さんだったけど、食事を取ったら、少しは元気も出てきたみたいだ。
 とりあえず、出したものは全部平らげてくれて、俺はほっとした。
 過去に何度か、食欲があまりない、ってことで、食べ切れなかったこともあるから。
 そりゃまぁ、俺も分量が分かってきたってのはあるんだろうけど。
 
 食事が終わったら、テレビを見つつ、雑談した。
 普通に世間話もするけれど、テレビのドキュメンタリーがちょっとだけ俺たちの仕事にも関係する内容だったので、仕事の話になった。
 
 俺はどっちかっていうと、聞き役っていうか、志織さんにあれこれ教えてもらうって感じになっちゃうのは仕方ない。
 そんなだと、ついつい言ってしまった。
 「僕ってまだまだですよねー」
 「んー、そうねぇ」
 ……愚痴ってどうする。自分でツッコミを入れるけど、話し始めたら止まらなかった。
 
 「まだ二年目だから、しばらくは先のことかも知れないけど、こんなんで、志織さんや北川さんみたいになれるかなぁ」
 「あー」
 肯定とも否定とも取れない返事。
 なれる、と言ってもらえないってことは、志織さんも判断に苦しむってことなんだろうなぁと思うと、それはそれでへこむ。
 「まぁ、人それぞれだからねぇ」
 ぺろり、と手元のワイングラスを舐めるように一口。その唇が、妙に色っぽくて、俺は頭の中は仕事のことでいっぱいなのに、気持ちはそっちに行ってしまって、一瞬そぞろになった。
 
 志織さんは、そんな俺を見透かしたかのようにくすっと笑った。
 「陸海みたいなタイプでも、人の上に立つ人は、いるけどね」
 「そうですか?」
 「……キツけりゃいいってもんでもないし。人当たりいい方が、下の人間は働きやすいってこともあるし。ゆるいのと優しいのはちがうでしょ?」
 「まぁ」
 「林さんなんかは、どっちかっていうと、陸海タイプじゃない?」
 志織さんは隣のチーフの名前を挙げた。
 確かに志織さんや北川さんみたいにバリバリやるタイプじゃないけど、そういえば下の人たちが悪口言ってるの、聞いたことないし、社内の評価も悪くないような気がする。
 
 「陸海とか林さんみたいな人は、下にしっかりした人が集まりやすいのよ」
 志織さんが苦笑した。
 誉められてるわけじゃ、ないよな、多分。
 「上司と部下ってのも相性だからさ、……私と陸海は相性悪くないと思うよ、仕事でも、ね」
 「でも」
 「何?」
 「北川さんだって、……志織さんと相性悪くないでしょ?」
 「北川?」
 
 志織さんが笑った。何言ってるんだ、ってそういう顔だけど、でも俺としては、二人並んでるのを見るたびに、複雑な気分にはなるんだ。少なくとも今のところ、俺が志織さんの隣に立つよりは、北川さんが隣に立つ方が、サマになるし、志織さんだって、北川さんのことを頼って、……信頼している、っていうの、すごく分かるし。
 
 「そりゃ、北川は……」
 「志織さんと似たタイプですよね」
 「北川は、私が居ないときは私の代わりなんだから、ゆるゆるだったら、おちおち出張も出来ないじゃない」
 何を言ってるんだ、といわんばかりに、志織さんが言った。
 だよなー。だから、やっぱり志織さんに必要なのは俺じゃなくて、北川さんなんじゃないのかなぁとか、そんなことを考えてしまう。
 
 「陸海?」
 「ん?」
 「確かに北川は、私と似てるし、信頼してる。でも、北川と一緒にいたって、私は癒されないよ?」
 そうかもしれないけどっ。それは仕事じゃなくて、恋人っていう存在で、だったら、北川さんがもし恋人だったら、北川さんでも癒されるかもしれないじゃないかっ。
 
 そんなことは言えない。言えないけれど。
 志織さんが俺を選んでくれたのも分かってるけど。
 さすがにそんな、情けないことは口には出せなくて、俺は口をつぐんだ。
 「陸海が何、気にしてるのか、分からないけど、私は見込みのない人間をしごくほど、暇人じゃ、ないのよ?」
 「……」
 志織さんの顔が、少し困っているように見えた。
 
 「はい」
 とりあえず、答えた。少しほっとしたように、志織さんが笑った。
 「分かれば、よろしい」
 ごろん、と俺のひざに頭を乗せる。
 「北川には、こんなことしようと思わないよ?」
 ……当たり前です。っていうか、それだけはヤメテ下さい。そんな心の叫びが聞こえたのかどうか。
 
 「陸海だから、だよ」
 重ねて志織さんが言った。俺はあいまいに笑った。

 ――――― Fin.

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