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  昔、男ありけり。


 春風がファサッとカーテンを揺らした。暖かく、けれどまだどこかに冷たさを残す風。揺れた拍子に朝の太陽の光が顔を照らして、眩しさに目を覚ました。
 
 「あぁ、もうそんな時間か……」
 一人呟いて、枕元の時計に手を伸ばす。
 目覚ましは一応掛けておいたが、その時間にはまだ三十分ほどは余裕があった。
 あまりの気持ちよさに二度寝を試みるが、いったん脳裏に刻まれた朝の光は、男の思う以上に頭を覚醒させていた。
 
 久しぶりの、予定のない休日。新年度も始まり、年度替りの仕事が一段落したため、抱えている仕事もそんなにタイトではなくなってきている。
 起きるか……男はベッドから体を起こした。
 
 冷蔵庫から牛乳を取り出す。昨晩買って帰った菓子パンを咥えながら、朝のワイドショーをなんとなく眺めた。
 男を起こした風は気持ちよかったものの、開け放した窓から入ってくる風は足元の空気までは温めない。久しぶりに掃除でもするか、と男は腰を上げた。
 
 布団を干す。洗濯機を回す。
 すっかり身についた家事仕事をこなしながら、今日は何をしようかとそんな事を考えた。
 窓の外ではウグイスの声が聞こえた。すこし郊外のこの部屋は、裏が山手になっていて、男がこの部屋に引っ越してきた頃――それは一昔以上も前になる――はたぬきも出没したりして、彼を驚かせた。
 それから幾度となく春はめぐり、今ではこの部屋で暮らすことは、男にとって体の一部のように当たり前のことで、それ以外の生活は考えられないような気がしていた。
 
 男は大学の職員をしていた。
 出身大学で、そのまま採用となった。元からその予定だったわけではなく、就職浪人をしていたところ懇意にしていた事務長が臨時のアルバイトとして雇ってくれて、そのまま契約社員として働き続けている、というそれだけのことだった。
 しかしその仕事は自分に合っていたと思う。
 日々単調と言える部分もないではないが、それなりに組織としては大きいし、しっかりしている。毎年学生たちは変わっていき、その中には様々な出会いもある。
 いつまでも学生でいたい、などと埒のないことを考えていたことを思えば、今の仕事は半分くらいはかなったようなものだと思えた。
 
 昼食を取ってから、のんびりと買物に出た。
 改めて気付いたが、冷蔵庫の中には食物と言えるものはほとんどなく、そんな生活を送っていたことにも少し愕然とする。
 帰宅が遅くなるときは、コンビニエンスストアの惣菜で済ませるのが、ここ最近の夕食だった。
 
 行き先は、これもまた、この場所に引っ越してきてから、ずっと利用している小さなローカルのスーパーだった。
 特に何がよい、というわけではない。ただ、使い慣れている。コンビニエンスストアよりはもちろん品揃えだって良いし価格も手ごろだ。
 買物をして、改めてその店もまた、男の生活の一部になっているのだな、とそんなことを考えた。


 店を出て、ふと思い立ってレンタルビデオ店に寄ることにした。
 このまま一日、何もせずに終わるのももったいない気がしたからだった。
 
 「あれ」
 道沿いに、腰掛けて何かしている若い女性の姿が目に入った。
 後姿ではあるけれど、どことなく見覚えがある。
 
 「先生?」
 その声に驚いて、女が振り返った。あぁ、やはり。バランスを崩して、あやうく転びそうになるのを踏ん張り、立ち上がった。男は一瞬、手を差し伸べようかと思ったが、その間もなく、女はすっくと立ち上がり、少し恥ずかしそうに笑った。
 
 「何しておられるんですか?」
 そう言いつつも、男は女の手に持っているものに目をやる。彼女には一見不似合いなほどの、大きくて黒いカメラ。
 「あ、こんにちは」
 見知った顔だと分かったからか、女は頭を下げた。
 
 先生と言っても、女の年齢は男よりも下だった。ただ、昨年の春から、男の勤める大学に非常勤講師として雇われて来ていた。
 「ここって、たんぽぽがすごいでしょう? 昨年は撮ろう撮ろうと思っているうちに花が終わっちゃって」
 「カメラが趣味なんですか?」
 「え、えっと、まぁ」
 なんとなく言いづらそうなので、話を変える。
 
 「この辺りは、昔からタンポポがすごかったんですけど、最近は特に多くなった気がしますね」
 「毎年増えているのかしら」
 「そうかもしれません」
 「この大学の出身なんですか?」
 「えぇ、そうです」
 「自然が豊かで、いいところですよね」
 
 誉め言葉だろうか。一瞬そんな事を思うが、素直に受け止めておくことにした。
 地面にしゃがみこんで写真を撮るのに夢中になるような人だ、おそらくはそれは本心だろうと思う。
 「そういえば、学生から聞いたんですけど、すごく大きなたんぽぽがあるんですか?」
 
 男は思わず噴出した。いくら自分たちと年齢が近いとは言え、教官にそんなことを吹き込んでどうするんだ。
 「あぁ」
 思わず笑った男の顔を、女は不思議そうに見つめた。
 「学校の怪談ってやつですよ」
 「え?」
 「巨大タンポポの話でしょう?」
 「そうですけど」
 
 男たちの通う大学には、半官半民の放射能の研究施設がある。そこの放射線が漏れ出してせいで、巨大化したタンポポがある、という話を、男は説明した。
 「だから、まるっきり噂ですよ、噂。僕も入学してきたときに先輩から言われましたから」
 「え、ないんですか?」
 女の顔は、本当に残念そうだった。
 その話を聞いて、本当にあると思っていたことにも驚いたが、男の知る限り、女性たちは巨大タンポポよりも放射能の恐怖の方に意識が行ってしまうことの方が多かった気がした。
 彼女は他の女性たちとはちょっと違うのかも知れない、とそんな事を思う。
 
 「たんぽぽ、好きなんですねぇ」
 「はい」
 「この辺りは他にも結構色々な花が楽しめますよ」
 「そうみたいですね」
 
 女はわが意を得たり、とでも言わんばかりににっこりと笑った。
 その顔は本当にうれしそうで、男はいつか案内でも出来るといいな、とそんな事を考えた。

 ―――――― Fin.

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