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 昔、女 ありけり。
 

 大きく天井に向かって伸びた、ガラス窓。下半分は扉で、その上、天井までもガラス。その向こうに、朧にかすむ月。
 

 「雪だって」
 そんなことを聞いたのは今から二時間以上も前のことだった。
 「え、だって、さっき月……」
 女の声をさえぎるように、
 「うん、でも降ってる」
 教師の声が響いた。
 
 こぢんまりとした、塾だった。教師は一人。生徒は学年に、多くて4、5人。今思えば、よく採算が取れていたものだと、そんなことを思う。
 教師は、もともと公立中学で教鞭をとっていたという。面倒見のよい彼女は、教え子の女たちを時に厳しく、けれどそれなりにやさしく、そして丁寧に導いていた。
 
 そっかぁ、と女は顔を曇らせた。今日は、あの子も来るのに。
 女の思う相手は、一つ年下の少年だった。
 案の定、それからまもなく、雪まみれになった少年が、姿を現した。
 「降ってる?」
 「うん、いっぱい」
 そう言って笑った少年の顔は、わずかに照れているようだった。入り口でバサバサとコートを払い、雪を散らす。
 「もう、もっと丁寧にやりなよ」
 少年のほうから飛んでくる雪をよける振りをしながら、女も笑った。
 
 「はいはい、脱いだら、すぐこれね」
 課題のテキストが目の前に置かれる。それぞれ自習をしながら、教師に聞いていくスタイルの塾だ。
 「はーい」
 女は少年とじゃれるのをやめ、課題に向かう。少年は苦手な部分だったらしく、何やらわずかに奇声を発し、たしなめられていた。
 

 やがて時間が過ぎ、塾の終了時間となった。
 少年と女は連れ立って教室の外へと出る。雑居ビルの3Fが、二人の通う塾だった。
 
 ウィーン、と低くモーター音をたてて、エレベーターがあがって来る。女は1、2とあがってくる光を眺めていた。少年はボタンの前に立っていた。
 ジー
 扉が開く。二人は乗りこんだ。
 
 扉が閉まる。下へと降りるとばかり思っていたエレベーターは上へと昇り、Rのマークで止まった。
 「え、え?」
 少年が、女を見て、笑う。
 「ここ、知ってる?」
 女は黙って首を振った。
 
 「屋上。外には出られないけど」
 少年がエレベーターを降りたので、女もつられるように降りた。階段と、その先にわずかなスペース。物置のような使われ方をしているらしく、屋上へと続く扉へ向かうそのわずかな通路の右側には、ダンボール箱のようなものが積み上げてある。
 
 明かりも、エアコンもない。深々と冷えるリノリウムの床から、冷気がしのび上がってきていた。
 「やっぱり、少し積もってる」
 少年がガラスの向こうを見て言った。
 「ほんとだ」
 量はさほど多くないと思う。けれど誰も足を踏み入れることの無いその屋上は、見事に一面、真っ白な雪だった。
 
 「まだ、降ってるね」
 雪の白さ、闇の深さに目を奪われた女は、思わずガラス戸に顔を寄せ、目を凝らした。
 「雪が、雪じゃないみたい」
 少年の声に振り返る。少年は空を見上げていた。ひらひらと舞うぼたん雪は、空にある時は白くなく、灰色がかって見えた。
 女は幼い頃、祖父がおこした焚き火のことを思い出していた。まんべんなく火を回らせるため、祖父はときどき焚き火をかき回した。その度に、かっと炎は燃え上がり、火の粉が飛び、そして最後にひらひらと薄黒い灰が落ちてくるのだった。
 
 そんなことを考えていたためか、女は少年の手が伸びてきていることに気付かなかった。
 「やっぱり、寒いね」
 その声に彼を振り返った時、女の頬に、冷えた少年の指が触れた。
 「っ、何」
 「……なんでもない」
 何でもないことはない、と女は思うが、それ以上何も言えなかった。少年の顔が、首筋に近づく。キスされる、と女は思ったが、唇はすぐそばで止まり、少年の暖かい息だけが女を包んでいた。
 
 「何?」
 女はもう一度尋ねたが、その声はかすれていた。
 「あったかいね」
 女の動揺などまったく気にした様子もなく、少年はそう言った。女は動くことが出来なかった。
 

 「帰ろう?」
 しばらくの後、やっと女は声を振り絞った。
 少年は手を離す。触れていたところが、急速に冷めていくのが分かった。
 
 再びエレベーターがあがってくる。女は少年の横顔を眺めていた。息苦しくなってくる気がした。昨日までと違う顔。
 エレベーターの扉が開き、明るい光が溢れた。
 少年は無言で乗り込む。その明るさの中では、先ほどまでの男の横顔を見ることは、もう出来なかった。
 
 入り口近くに立った少年はボタンを押さなかった。女の目の前で扉が閉まる。けれど、エレベーターは動かない。
 
 「もう少し」
 彼はそう言った。女のほうへと手を伸ばす。
 けれど、女と目が合うと、そのまま気まずそうに視線を逸らし、黙って1Fのボタンを押した。
 
 ―――――― Fin.

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