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 昔、女ありけり


 五月、まもなく梅雨にでも入ろうかと言う季節、女は男を乗せて、車を走らせていた。黒い雲は空低く立ち込めて、じめじめとした空気がまとわりつく。車の中では、かつてよく聞いていた、オールディズの曲がDJのかろやかな声と共に流れていた。
 二人の間には、とくに話すこともなく、時折、沈黙を避けようと口から出るのは、天候の話題くらいのものだった。
 
 一時間ほどで、目的地の灯台へと車は辿り着く。白い石造りのそれは古めかしく、歴史を感じさせた。入り口で入場料を払ってから、二人は中へと足を踏み入れた。
 「ここ、覚えてる? 懐かしい……」
 女は幾分かまぶしそうに目を細めて言った。視線が揺れる。懐かしさを噛みしめているかのようだった。
 「もちろん。でも、俺にとってはここはもう……過去って感じかな。それよりも、現在(いま)や未来の方が気にならない?」
 男は言った。
 
 二人は、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、灯台の狭い階段を昇りはじめた。けれど会話は登るにつれ減ってきて、一番上まで辿り着いたときには、もう二人とも何もしゃべることは出来なくなっていた。話題もなくなっていたし、息も切れていた。
 灯台の一番上には、展望テラスがあり、そこから景色を眺めることが出来る。一歩外へと踏み出すと、冷ややかな海風が二人を煽った。
 
 二人は、しばらくの間、だまって、ただ、そこに広がる景色を眺めていた。
 女は二人が付き合ってきたこれまでのことを、とめどなく思い出しながらぼんやりとしていた。そんな彼女を見ながら、男はどうしたものかと考えあぐねていた。
 そもそも、別れを切り出したのは女のほうだった。それは男にとっては突然で、とても受け入れられるものではなかった。二人の思惑は、完全にすれ違っていた。
 
 二人の眼下には、日本海の荒波が広がっている。時折、激しい波が、灯台の足元の岩場を洗い、強い風が吼えるように吹きつける。それはまるで泣き声のように聞こえた。あるいは、二人の関係の終わりを告げるレクイエムのようなものかもしれない。女はそんなことを考えた。
 男は、必死で女の表情を窺う。なんとか、女の気持ちを変えることは出来ないかと思う。しかし何一つ、言葉にはならなかった。
 
 しばらくそのまま景色を見て、時間をつぶし、そのまま連れ立って、下へと降りた。
 「この周りも、歩いてみる?」
 その提案に、男はほっとした。海からの風は相変わらず生ぬるく、しょっぱい。その風に、隣に並んでいる女の髪が揺れた。

 「……失敗だったかもしれない」
 唐突に、女が言った。
 風に気を取られていた男は、その突然の言葉に怯えた。それは二人の付き合いが失敗だったということを意味しているのだろうか。そんな男の様子に、女が笑う。
 「え? あ、違う、違う。そういう意味じゃないわ」
 「じゃぁ、どういう意味だよ」
 思わず、むっとした口調になってしまう。男の心中をまるで分かっていないかのような女の様子に、わずかに苛立っていた。
 「この、風よ」
 女が言った。
 
 「風?」
 男が聞き返す。その瞬間、女は風を不快に思っていただけなのだと気づき、男の顔に羞恥が浮かんだ。
 そんな様子を見ながら、女は笑いをこらえることが出来なかった。
 もう、だめだと思っていた。でも嫌いにはなれなかった。だからここへ来た。そして……こんな状況の男を見て、かわいいと思う。自分のことをまだ愛してくれている、というそのことを、嬉しいと思う自分。
 「笑うなよ」
 「笑ってないわよ」
 男が恥ずかしさを隠すように、ぶっきらぼうに言った。そんな様子が、愛しいと思える。
 「笑ってるじゃないか」
 「そんなこと、ないって」
 女はそれ以上、何も言わなかった。先にたって、歩き出す。
 
 数歩歩いて、振り返った。
 「この時期の日本海は、嫌い」
 幾分不機嫌な感情をこめた声に、男は眉をしかめた。先ほどから、女に振り回されていると思う。とは言え、それはいつものことだった。
 「でも、時には奇跡も起こすのよ」
 
 男は女の真意を測りかねた。しかし、その女の表情は少なくとも悪いものではないように思える。その顔には、ここへ来た時のような冷たさは残っていなかった。
 「そうなのか?」
 思わず呟いた問いに、女の返事はない。
 「ま、じゃぁそういうことにするか」
 諦めたようにため息をついて、男はぼやいた。そんな男の様子を見て、今度こそ、女は声を立てて笑った。
 
 ―――――― Fin.

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