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融けた雪

 とうとう来ちゃった……
松山清香はすこし結露した窓の外の景色を見つめつつ、心の中でつぶやいた。
 窓の外には川が流れ、川岸にはすっかり葉の落ちた桜並木が並んでいる。桜の足元にはまだ融けきれず残った雪がまだらの灰色に残っている。
 部屋の中はヒーターのじー、という音とテレビの音声が小さく聞こえている。掘り炬燵に足をつっこみくつろいでいる恋人、由也の顔をちらと眺めた。その気配に由也は顔を上げ、「何?」とでも言うように首をかしげる。
 清香はちょっと微笑んで、窓の外を再び眺めた。
 清香は窓の桟に腰掛け、右手を出窓の部分に置き、ちょっと乗り出すように窓の外を眺めている。清香の左手は左の腿のあたりにあった。
 薬指には銀色の指輪が光っている。
 由也はその指輪にそっと目をやる。ここにいる間ははずしてもらえないか、と言い出せない自分にすこしばかりの苛立ちを覚え、目を伏せた。清香に聞こえないよう、小さく息を吐いた。
 耳をすますと川のせせらぎも聞こえてくる。ぼんやりと二人は時を過ごしていた。
 
 今日の旅行を誘ったのは由也の方だった。年が開けて間もない頃、由也がつぶやいた。
 「清香さん、今度俺の誕生日。一緒にいてもらえますか?」
 由也の誕生日は1月の月末の日曜日であった。
 「うーん、日曜日かあ。」
 清香は逡巡する。平日ならばいろいろと理由をつけて、由也と会う時間を作れるが日曜日は口実に苦労する。それでも清香は由也の誕生日を一緒に祝いたいと思った。
 「実は一緒に行きたいところがあって。」
 聞くと由也の地元から程近いスキー場で雪祭りがあるということだった。清香はすこしとまどった。しかし、きれいな花火があり、無邪気に誘う由也の様子を見ていると行きたい気持ちは盛り上がってくる。
 日曜日に出かけるというのはその分リスクだって高くなるけれど、由也がここまで積極的に清香を誘うのは、二人の付き合いが始まったフランス料理店へ誘われたとき以来、ほとんどないことだった。
 清香はOKした。泊りがけでの初めてのデートだ。「翌日は商談が2本あり、前の晩には着いておきたいのだ。」夫には商談話をでっちあげて、清香は由也との雪祭りにいくことにした。
 当日は由也が車を出した。雪祭りがあるところへ行くのだから路面の状況はいいとは言えない。清香はすこし心配したが、由也の運転は若い男性らしく適度にスピードを出すものの、無茶な運転ではなく、心地よい運転だった。由也の性格が現れている、と思った。
 そして今二人は部屋でくつろいでいる。
 宿の人に花火の詳細な時間と場所を確認すると、車で10分ほど行き、そこから徒歩で10分程度、ということだった。夏の花火大会のような人出はあまりなく、渋滞になることもほとんどないらしい。6時半から7時までということなので、夕食は帰ってからとることにしていた。

 「清香さん、そろそろ出ましょうよ。」
 由也が清香に声をかけた。ちょっと早いんじゃないの?と思ったが、それでもゆとりを持って出ることにして、身支度を整える。防寒着は清香が持ってくるわけには行かなかったので、清香の分まで由也が車に積んできていた。
 初めのうち、由也はすこしはしゃいでいるように見えた。普段とは違う雰囲気は、清香に「泊りがけの外出をはしゃいでいるのか」と思わせたが、それでもどこか清香には違和感があった。
 旅館の人が言った通りにあっさりと目的地に到着した。そのスキー場に来たことのない二人にとっては普段より人が多いのか少ないのかも分からない。しかし、胸に名札を付けた人がすれ違うことがあって、今日何かがある、と予感させる会場だった。
 6時くらいには会場のアナウンスがあり、清香たちは移動する。ポケットには使い捨てカイロが入っており、足元は厚手の靴下を履いてはいるが、じっとしているとさすがに寒さは体に忍び込んでくる。やがて周りの人口密度が上がってくると足元の冷えはどうしようもないものの、人に遮られて、北風の寒さは感じなくなってきた。
 6時半から花火ということだったが6時15分過ぎからアトラクションのようなものが始まった。このスキー場のインストラクターたちだという。
 ゲレンデの上からさまざまなポーズで滑走してくる。わざとターンして雪を跳ね上げたり、男性のスタッフなのだろう、ジャンプをしたり、5人平行して滑り降りたり、そういった人たちの合間にはトーチを掲げたスキーヤーが滑ってくる。
 本物の火はゲレンデでもそこだけ目を奪われるくらい美しかった。やがてスキーヤーが3人並んでトーチを持って滑り降りてきた。一番下までたどりついたか、つかないかというとき、大きな音とともに花火が上がった。
 一瞬あたりが真っ白になる。夏の花火は光が夜空に吸い込まれていくけれども、冬の花火は雪への反射できらめいて、たかが1発の花火でも夏に見る花火の何倍も激しく感じる。
 見ていると顔がほてってくるようで、その反面、冷たい風や、下から上がってくる冷気、そうした冷たさが絶え間なく体を取り巻いていて、くらくらするくらい幻想的に見えた。
清香は由也としっかりと手をつなぎ、食い入るように見つめた。花火のはかなさと空気の冷たさ、そして由也の暖かさの中で、清香は時間が止まっていると思った。

 花火が終わって旅館へ戻り、夕食をとった。山菜を中心とした量こそ多くないものの味わいの豊かなおいしい食事。夕食後、清香は由也に誕生日プレゼントを手渡した。十字架をちょっとオリエンタルにデザインした皮ひものシルバーのペンダントである。由也は
 「今日も付き合ってくれたんだから、いいのに……」
とすこし戸惑ったが、素直に受け取った。で、なんだかニコニコと、でもちょっといたずらっ子のような表情で笑っている。
 「これ、付き合ってくれたお礼と、清香さんになにかあげたいな、と思って……」
と小さな箱を差し出した。由也は今まで清香になにかをプレゼントしたことなどなかったので清香はすこし驚いた。開けてみて思わず苦笑して由也の顔を見る。由也も笑っていた。そこにはシルバーのクロスにラインストーンがはめ込まれているペンダントがあった。
 「なんか、二人して同じようなもの、選んじゃったわねぇ。」
 「気が合うんですよ。」
 由也はそういって清香の首にペンダントを回す。清香も由也の首にペンダントをかけた。
 「俺は清香さんがもらえればそれでよかったのに。」
 そういいながら、由也は清香の唇を求めてきた。
 「ん……。」
 甘いささやきを返しながら清香は思う。普通の恋人同士であれば、体を預ければ私をあげたことになるのだろう。でも、今のような関係で、体を重ねるだけで私をあげることになるんだろうか。
 由也のささやきの真意を測りかねていた。それでも由也の唇は場所を移し、二人の体は折り重なっていた。
 二人はいつもより激しく求め合った。清香はせめてここにいる間だけは由也にすべてをあげたいと思っていた。由也の手はいつもより熱く、足先はいつもより冷たかった。
 
 二人が出会ったのは清香の勤務先だった。
 その日、時刻はまもなく6時になろうとしていた。ワインセラーの中をざっと整理し、扉の外から中を眺め、点検する。
 そのとき後ろに人の気配がした。
 「いらっしゃいませ、すみません」
 清香は反射的に体をずらし、頭を下げた。
 「あ、見てもいいですか?」
 清香が顔を上げるとそこにはやっと二十歳になろうかというくらいのすらっとした若い男性が立っていた。
 「どうぞ。ごゆっくり……」
 その彼の横顔を見て、清香はドキリとした。(似てる……)前髪は長めだったが、メタルフレームのめがねをかけた彼の横顔は、大学時代に付き合った昌志の横顔にとてもよく似ていた。でも彼ではない。昌志は清香と同い年、この目の前にいる彼はどう見ても二十歳そこそこであった。思わずじっとみつめてしまった清香にその男性は
 「なにか?」
 と問いかけた。(やっぱり違う。)清香はあわてて首を振り、
 「いえ、どうぞ」
 と笑顔をつくった。
 さっきの彼はセラーの中でうろうろしながら、ためつすがめつしている。……と思ったら出てきた。清香と目が合った。
 「すみません、ワインのこと、ちょっと訊きたいんですけど。」
 帰ろうと思った矢先では合ったが、もちろんそういうわけにはいかない。
 清香はセラーの中へと入った。
 「兄貴が今度誕生日なんですけど、ワインでも贈ろうと思って来てみたんです。最初は単純に生まれた年のでも……とか思ったんですけど、結構古いワインって高いんですね。で、どうしようかと思って。」
 「あぁ、そうですね。やっぱりいいお値段になりますねえ。」
 話しながら清香は少しどきどきしていた。声も昌志と似ている。 
 「お兄さんはおいくつ?よくワインとか飲んでおられるのかしら?」
 「29になります。最近わりと飲んでるみたいなんですよ。この前実家に帰ったらそんなこと言ってて。でもあんまりいいのは飲んでないっていうから。この前ちょっと迷惑かけちゃったし……」
 そのとき清香の脳裏を横切るものがあった。(もしかして、……弟?)
 「赤がいいみたいです。予算は……安いほうがいいけど、まぁ、そうも言ってられないので、5000円くらいで。」
 「渋いのがお好きなのかしらね?」
 「そんなこと、言ってました。他にもなんか言ってたんだけど、よくわからなかったんで覚えてないんですよ。」
 「そうですか。うーん、そうねぇ。」
 清香は少し逡巡する。もしかしたら、昌志のところへ行くかもしれないワインである。あまりいい加減なのは選べない。
 「このあたり、男性の方とかに結構人気ありますけれど。」
 選んだのはシャトーヴォーデューだった。サンテミリオンの最近評判のいいワインだ。
 「シャトーワインっていうやつですか?」
 「ええ、まぁそうですけど、シャトーものって言ってもピンからキリまでなんですよ。」
 しばらく二人は男性の質問に清香が答える、という形でワインの雑談をし、結局ワインも清香の勧めるものに決め、二人はセラーを出た。セラーの冷気に大分体は冷えていたがはしゃいでしまったのか、清香の頬はすこし火照っていた。
 お会計という段になって、その男性は発送してほしい、と言った。発送伝票を差し出す。送り先は清香たちの住んでいるこの町から電車で1時間と少し、Y市であった。書かれた送り先はやはりというべきか、昌志の名前であった。そして弟の名は由也と書いてあった。
 食い入るように伝票を見つめる清香に気づき、その男性は怪訝な顔をした。
「あの……?」
 清香は少しあわてて、顔を上げ笑いかけた。
 「ごめんなさい、私もY市に住んでたことがあって。」
 冷静に考えるとその程度の理由で伝票を見つめる理由などないように感じたが、由也はそれで納得したようだった。
 「名前はゆうや、って読まれるんですか?」
 「そうです、ちょっとない名前ですよね。」
 そういいながらも由也は伝票を書き上げ、
 「これでいいでしょうか?」
と清香に手渡した。清香はお客様控えを渡しながらお会計を済ませた。
 清香の退勤時間はすでに30分ほどまわっていた。店長は由也とセラーに入っていたことを知っていたのでそのままタイムカードを押して、帰路につく。清香はそこでやっとちょっと顔がほてっていることに気づいた。
 (まぁでも、そうそう会うわけでもないだろうしね)清香はそう考えてちょっと残念な気持ちでいる自分を冷静に見ていた。

 はじめてあった日から10日ほどが過ぎようとしていた。由也がまたショップに顔を出した。清香をみると、こころなしかうれしそうに見えた。かくいう清香もちょっとだけうれしかったのは事実だ。
 「松山さん、彼この間も来たけど、松山さんいないから結局買わずに帰ったんだよ。」
 と、同僚がささやいた。(え?そんな……どういう……)清香は少し心が揺れた。そんな清香を知ってか知らずか、由也は近づいてくる。
 「松山さん、でいいんですよね。先日はありがとうございました。兄貴、結構喜んでましたよ、うまいって。」
 「そう?よかったです。」
 「俺もなんか兄貴に聞かされてるうちにワインのこと、もっと知りたいなぁって思って。でも何からどうやって飲めばいいのかとかわかんないし、この前松山さんに結構いろいろ教えてもらったんでまた、来たんですよ。」
 清香は微笑む。ここで働いていて一番うれしいのはこういうときだ。
 「私の知ってる範囲でよければなんでもどうぞ。」
 「なんでも、って言われると、逆に困っちゃうなぁ。とりあえず、今日飲むワインということで、何か1本オススメを。」
 「赤、白どちらで。」
 「白、かなぁ?でもあんまり苦くないのがいいんだけど。」
 「苦くない?甘いってこと?」
 「いや、なんかでも白でもみょーにギスギスした感じのってないですか?あれがどうも苦手なんですよね。」
 「う〜〜ん、ギスギスかあ、わかるような、わからないような……」
清香はとりあえず、アルザスのリースリングを勧めた。香りもよいし甘すぎず辛すぎず、職場で同僚と試飲したときにも誰からもまずまずの評価を受けた一本だった。
 やがて由也は1週間に多い週には2、3度、少ない週でも最低1回は顔を出すようになり、お店のメンバーともすっかりおなじみになってしまった。最初のうちこそ同僚は松山になついている由也のことをあれやこれや鞘当てしたりしていたのだが、やがて何も云わなくなり、すっかりいいお客さんとしての地位を確立してしまっていた。
 そんな由也に対して、清香は少しほっとしながらも、どこか物足りないような複雑な思いでいた。けれども、では由也と何かがあるのを期待しているのだろうか。どうもそれも違う気がする。何を求めているのか自分でもよくわからず、清香は由也の来るのを少しだけ楽しみに毎日を過ごしていた。
 
 そんな毎日が2ヶ月も過ぎたころ、清香は由也に食事に誘われた。そのころ由也は自分でもワインの本を買ったりしているようで、かなり詳しくなっていた。清香は冗談めかして時々、
 「そんなに詳しくなったら、私の説明なんて、いらなくなっちゃうね……」
などといっていた矢先のことであった。店からJRで一駅のところに創作料理を中心にした店が出来たらしい。なんでもそのシェフは清香たちのいるショップからほんのわずかなところのフレンチレストランで働いていたそうなのだが、このたび自分の店を構えたという。
 由也はそのシェフを知っているとかで、そのオープンした店に行ってみないかと誘われたのだ。夫以外の男性と夕食をとるのは、清香にとってはそうそうあることでなく、すこし躊躇したのだが、由也はその店のシェフがワインに詳しいこと、そこの店の料理がおいしいことを強調し、是非にと誘うのである。
 清香としてもいやなわけではなし、結局二人で食べにいくことにした。
 そこは由也が強引に誘っただけあって、本当においしかった。ワインなどもどこでも手に入るようなワインは置いておらず、ちょっと通向きというか、知っている人は知っている、といった感じのワインがずらっと並べてあるのである。さらに清香が驚いたのはオリーブオイルにこだわって、有名なワイナリーの自家製のオリーブオイルを使っているのだった。そんな瓶などは見ているだけでも楽しい。
 店を出たとき清香はすっかりいい気分で出来上がっていた。由也は大学生にしてはエスコート慣れしており、清香も普段はショップの店員とお客という立場上、どうにもどこか距離を置いていたのだが、食事の間中、いろいろな話をしているうちに、すっかり打ち解けてしまっていた。
 店を出て二人は駅方向に歩いて向かう。ちょっとよろける清香に由也は
 「うちに寄っていきませんか?」
と声をかけた。由也の家がどこともわからず、清香は首をかしげる。それに独身男性の家に酔って上がりこむ、というのは清香には抵抗があった。黙ってしまった清香に由也は重ねて
 「そこなんですけど」
と、声をかけた。さっきよりすこし強い口調に感じた清香は由也を見上げる。しかし由也はめがねの下の、普段は意志の強そうな瞳をちょっとやわらかくして、どうですか?と重ねて言った。
 清香はちょっとだけ躊躇し、うん、と言った。清香はこの瞳には勝てないのである。由也にも、そして昌志にも。

 由也の部屋は狭かった。6畳にキッチンだけのシンプルなアパートであった。ものがないため、やけにすっきり見える。由也は台所に立ち、コーヒーを淹れた。清香はものめずらしそうにそのあたりを眺め、黙って座っていた。
 薫り高く入ったコーヒーを持ってきて、由也は清香に手渡した。
「そんなに珍しいですか? 」
 由也は清香に問いかける。
 「ううん、でもなんだか、ものがないのねぇ……」
 「ちょっとじゃまになったらすぐ、実家へ持って行っちゃうんですよ」
 由也は穏やかに笑いながらそう答えた。二人はさっき夕食で話していた雑談の続きに突入していたが、清香の心はだんだん落ち着きがなくなっていってしまった。
 なんだか、由也との距離が妙に近い。もちろん、レストランと由也の部屋との差というのはあるだろうけれど、最初テーブルの角越しだった二人だが、気づくと真横に近いくらいにならんでいた。しかし、由也は気づいていないようだ。
 急に離れるのもヘンだし、かといって……とすこし清香が逡巡していると、由也がコーヒーのおかわりを聞いてきた。由也が台所へ立ち、清香はちょっとほっとして位置を直す。
 しかし由也は戻ってきたときにはコーヒーのおかわりではなく、ワインとグラスを手にしていた。
 「え、さすがにもう飲めないよ〜」
と、おどけて言う清香に
「これ、デザートワインなんですけど、本当においしいんですよ」
とすすめる。おいしいワインと聞かされて、清香に断れるわけはなかった。フランスのミュスカ ド リヴサルトというデザートワインだった。
 「あ、ほんと、すごくおいしいねぇ」
 ミュスカは甘いのだがしつこくなく、薫り高く、本当においしいワインであった。
そして二人の位置はまたじわじわと近寄っていた。もしかして由也が寄ってきているのかと清香が思い始めたころ、それは不意にやってきた。
 由也が清香の右手のグラスを突然取り上げたのである。
 「なに?」
 清香が聞くか聞かないかのうちに由也の左手が清香の右手の指を捉えていた。清香の目には一瞬おびえが走ったが、由也はいつもの優しい瞳のままであった。
 「ワインのお礼は?」
 そういうなり、由也は清香を抱き寄せ自分の胸元に抱きしめていた。清香は一瞬声も出なかったが、やがておそるおそる顔を上げる。由也の顔は見えない。
 「ゆ、由也くん……?」
由也はちょっとくぐもった声で、ん……といっただけで離そうとはしてくれなかった。清香は少しそのままでいたが、由也がそれ以上黙ってしまったので口を開く。
 「酔ってる?」
 「うん、酔ってる。」
 今度はちゃんと返事をした。でも相変わらず清香は抱きしめられたままである。
 「だめかな。俺じゃだめ?」
 少し甘えたような口調で由也がささやいた。由也からは吐息と一緒に、ミュスカの、蜂蜜を思わせるような華やかな甘い香りが漂っていた。清香は抱きしめ返したい衝動に駆られたがそれもためらわれて、身じろぎも出来ないでいた。
 「何……え?何?」
清香は胸の動悸が激しくなっていたけれど、努めて冷静にたずね返した。もう、由也が自分を求めていることははっきりとわかっていたけれど、あえてそれには気づかないふりをした。
 自分から、というわけにはいかないと思った。由也はそれをどうとったのか
 「俺がもう少し、大人だったらいいのかな。」
などとつぶやいている。やがて由也は少し顔を離し、清香の顔を覗き込んだ。
 「ねぇっ、俺じゃだめ?」
 清香は少し困惑しつつも、改めてちゃんと聞き返した。
 「何が?」
 由也はしばらくのあいだ、黙っていた。
 「俺のこと、好きになってよ。」
 由也は腕に力を少し込めてささやいた。
 「うん、好きよ。」
 あまりにもあっけなくそうささやき返した清香に由也は目を大きく開き、それからすこしそらして、
 「うん……そうじゃなくて」
とため息をついた。清香はすこし困っていた。どうしよう。清香は清香なりに、肩の力を抜いてあげたつもりだったのだ。
 「どういう、好き?」
清香はたずね返した。由也は黙っていた。清香は由也の額に口付けた。
 「こういう、好き?」
由也の顔がその瞬間ぱっと赤くなった。そして、次の瞬間には清香は唇をふさがれていた。
 「ねぇ、ホントにワカラナイノ?」
 唇に、頬に、額に、まぶたに、首筋に、キスの雨を降らせながら、由也はそうささやいた。清香はだまったまま、由也に体を預けていた。
 一瞬、夫と昌志の顔がよぎったが、目の前の由也の優しい激しさにうっとりと目を閉じていた。
 由也の手が清香の胸にたどり着くまで、そんなに時間はかからなかった。最初は服の上からやさしく揉みしだいていたのが、やがてシャツのあわせから指が中に滑り込み、気づくとボタンはほとんど外されていた。清香は由也の手馴れた様子にすこし驚き、私は由也の何人目の女になるのだろう、と考えていた。
 胸に直接由也の指が触れた瞬間、そのひやっとした手先の感触に清香はすこし体をよじり、目を開いた。由也と目が合った。すこし激しい息遣いとともに、由也がささやいた。
 「俺、松山さんのこと、ずっとこうしたかった……話せば話すほど、好きになって、どうしようもなくなって、行かなきゃいいんだけど、会いたくて……」
 「うん……」
 清香はなんとも言えなくなって、そっとうなずいた。そして初めて清香から由也に唇をよせた。それが清香の返事だった。
 心のどこかで、由也とこうなる関係を望んでいた自分がいて、その望みがかなった。清香は体をねじり、由也の手が回りこみやすいように、すこし腰を浮かせた。そして由也は清香を組み敷いた。

 由也は手早く清香を全裸にすると、執拗に全身を愛撫した。年上の自分の体を思い、清香は最初のうちこそすこし抵抗したものの、やがて由也がめがねをはずし、清香の体に唇を寄せるともう、抵抗する気力もなく、甘い吐息で返すしかなかった。
 由也のすこし長めの前髪が、唇の愛撫に合わせて清香の体をいたぶる。それは2重の快感だった。やがて由也もすべての衣類を脱ぎ、コンドームをつけた。
 用意してあったそれに清香が目をとめると、由也は何を思ったか、
 「いまさら、もう、だめだからね」
といい、清香の髪をなでた。清香は顔を赤くしてうなずき、おおいかぶさってきた由也を受け入れた。
 そこは大分濡れていたけれど、それでも最初はすこし抵抗を感じ、由也はさらに突き入れてきた。清香は夫とはまた違う感触にたまらず声を漏らす。
 「あっ……くる……くるしいよ、由也くん……」
 清香は久しぶりの快感に思わず腰が動いた。
 夫とは月1のペースで、手順もなにもかも新鮮味がなくなっていた。こうして由也に抱かれ、まだ女として感じる余地が自分にあったことに、清香は我ながら驚きを感じていた。
 「そう?」
 由也はそのまま腰を動かし続ける。
 「あ……あん、やっ……はっ……あう……ん」
 清香は声が出るのを我慢できなくなっていた。由也に感じていたときめきが、今、夢でなく、その彼の体に抱かれていると思うと、清香はさらに体の奥がジンジンしてきた。
 「松山さん、感じてる?」
 由也が聞いてきた。返事が出来ずに清香が体をよじると、由也は逃すまいと肩をつかむ。
 唇を吸われ、片手で頬をなでる。
 「ねぇ、感じてる?俺のこと」
 「聞くものじゃないわ……」
 清香はそうつぶやいて顔を背ける。
 「ねぇ、名前で呼んで……」
苗字にさん付けで呼ばれると、なんだか仕事の続きのようだった。
 「清香さん……?」
 「呼び捨てでいいわよ。」
 「さやか……」
 由也はくすっと笑う。
 「呼び捨て、ちょっと難しいかも。清香さんじゃだめ?」
 「いいよ……」
 そうは言ったものの、清香は呼び捨てにしてほしい気持ちもすこしあった。由也の声は目をつぶって聞いていると昌志の声と似ていて、好きとささやかれるたびに、清香は一瞬今がいつで、ここがどこなのかわからなくなるような感覚に陥るのだ。
 由也はすこしうれしそうに、そしてすこしいたずらっ子のように目を輝かせて,清香の首筋に唇を這わせた。
 声を思わず漏らした清香に由也はささやきかけた。
 「もっと聞かせてよ」
羞恥に顔を染めた清香をうれしそうに眺めた後、いきなり由也は清香とつながったまま、清香をひっくり返した。
 「きゃっ!ああ……んん、だめ……」
 清香の背中が無防備に由也の目の前に広がっていた。左手を胸に回し、右手は清香の股間のつぼみを弄びながら由也は腰を揺らした。清香の息遣いがだんだん激しくなってきた。
 由也が清香の背骨にそって出来た凹凸に口付けたその時、由也を受け入れていたところが急にピクリとうごいた。
 「ああっ!」
 清香の腰が激しくたわんだ。
 「イキそう?」
 由也がたずねる。
 「ん……ううん。あっ、私、背中、んん……弱くて」
 もう一度由也が唇で背中をなぞっていく。明らかに我慢しているようである。由也は腰を激しく揺さぶり清香は絶え間なく声を上げ続けていた。
 さっきまでの受け身なあえぎ声から、明らかに喜びの声へと変わり、まもなく清香は軽い悲鳴とともに絶頂を迎えた。
 「イッちゃったの?」
 「うん……」
 表情は見えないが、声がかすかに恥じらいを含んでいた。由也はまだまだ元気であった。
 「清香さん、ホントに背中弱いんだね。」
 わざとらしくつぶやく由也に清香は首をふる。
 由也は再び腰を揺らし始めた。つい先ほど絶頂を迎えた清香は体が持つのだろうかと不安になる。由也は再び清香を仰向けにし、清香の足をすこし持ち上げた。
 「いくよ」
 由也は激しく清香に腰を突きたてた。こわれよというばかりの激しさだった。
 「あ、清香さん、俺も……」
 由也が息を荒くしてささやくと、いっそう腰の激しさが増した。
 「好きだよ。」
 由也はささやいた。清香は2度目の絶頂を迎えようとしていた。奥が激しく突かれ、しびれたようになってきた。
 「清香……んッ……好き……」
 やがて二人は一緒に終わりを迎えた。

 しばらく二人はつながったままでいた。由也が清香を離さなかったからである。終わったあとの恥ずかしさで清香が由也の腕から逃げようとするのを由也はがっしりとつかまえ、口付けたり、耳や頬に愛撫をくわえたりする。
 「清香さん……」
 「ん……?」
 「好き……」
 由也が何度もささやく。清香の理性は夫や仕事やそんなことが絶え間なく渦巻いているというのに、由也はそんなことは一切口にしなかった。ただ「好きである」と告げるばかりで、やがて清香もそんな由也の言葉の渦に巻き込まれ
 「好きよ」
と返すようになっていた。

 その晩は日付が変わったころ、清香は家路についた。清香が大学時代の友人や、同僚などと飲んで帰ることはさほど珍しいことではなく、夫はすでにベッドに入り寝息を立てていた。
 清香は丹念にシャワーを浴び、夫を起こさないよう、そっとベッドに滑り込む。
夫に不満があるわけではない。むしろ自分には出来すぎくらいの男性である。仕事にも理解を示し、何より清香のことを包み込むように愛してくれている夫であった。でも、と  清香は考える。何より大事な人。でも……。
 ほんの2時間前には由也と激しく愛し合っていた自分の体が、我が事ながら信じられない思いもする。好きだとささやいた由也の声がフラッシュバックする。
 夫に激しく求められたのはいつだったかと思う。大事に愛されてはいても、自分はどこかで激しく欲せられることを望んでいたのかもしれない。それがわがままだとは思うものの、女としては当たり前ではないかと正当化し、ベッドにもぐりこんだ。
 すぐに眠りに落ちることが出来なくて、清香は寝返りを打ち時計を眺める。2時を回っていた。3時前までは目が覚めていたのを覚えている。眠りに落ちる前遠くで雷の音を聞いたような気がした。

 翌日は朝から土砂降りだった。家を出るとき、清香は夫に何か感づかれるのではないかとすこし心配したが何事もなく朝は過ぎ、夫は出社していった。
 夫を悲しませたいと思っているわけではなく、でも由也への思いは間違いなく清香の中に芽生えていた。どっちもうまくいく方法なんてないのかしら、と思いながら、あまりにご都合主義のその考えに清香は我ながら苦笑してしまう。
 店に着いたとき、清香の携帯にメールが届いた。由也からであった。
 「おはようございます。すごい土砂降り。大変ですね。また会いたいです。」
 昨夜は結局次の約束をしないまま、由也の家を後にした。そのときから、自分は由也とどういう関係になりたいのだろう、とずっと考えていた。でもまだ結論は出ない。

 二人はそれからも時々会った。会えばワインの話やそのほか他愛のない話をし、時間をすごす。それでも体を重ねるのは2回に1回くらいのことで、むしろ清香は体もだけれど、若い由也といると、自分がまるで独身時代か学生時代に戻ったような華やぎを感じる。
 その心地よさに酔っていた。
 最初のうちこそ夫の一挙手一投足にも神経を尖らせ、気を使っていた清香だったけれど、慣れるにつれてそこまで神経質にならなくても大丈夫と感じるようになっていた。
 それもまた不安なようで、不満なようで、ただ流されているだけの時間が過ぎていた。
 清香は気付いていなかった。クリスマスも間近な頃、由也と逢っているとき、昌志の名前が自分の唇からこぼれてしまったことに。

 年末年始を由也はY市の自宅で過ごした。社会人として働いている兄は、自宅から仕事に通っていた。普段そんなに話すこともない二人だが、兄も年末年始は休みなので、何をするともなしの時間があったりしたときに由也は思い切って聞いてみた。
 「兄さん、松山清香さん、って知ってる?」
 「松山清香?……」
 昌志は一瞬考えをめぐらせる
 「清香……永瀬清香?」
 「あ、旧姓は永瀬っていうの?」
 「あぁ、確か松山だったよ。知ってるけどなんでお前が知ってるんだ?」
やっぱり……と由也は思った。清香があの時こぼした「まさし」というのはきっと兄のことだろう。
 いぶかしげな弟を兄が見つめる。由也はちょっと笑顔を作り、
 「良く行くショップの店員さんなんだよ。なんか兄さんのこと、知ってるみたいだったから。彼女だったの?」
 もちろんこれは由也のカマかけであった。
 「うん、まぁな。大学時代つきあってたよ。」
 そんなに隠すつもりもなく言う兄は、もう心が揺らがないのだろう。でも、自分にそのことを一言も言わなかった清香は?どうなのだろう?そしてあの時。
 「ふうん。」
 そっけなく由也は答え、その話を打ち切った。
 自分に昌志の面影を見ていたのか、由也は確かめる気にはならなかった。
 知らないほうが良かったとも、知ってよかったとも思える。
 でも、知らなかった風に元に戻ることは出来ないと思った。
 年が明けたら、どこかへ行こう。そして話が出来たら……そんなことを考えた。

 誕生日は清香と過ごした。でも、由也は結局答えを出せなかった。
 それでも季節は流れた。春、由也は何も言わず、二人の住んでいる町を離れた。
清香は突然由也と連絡が取れなくなった。電話もメールも、そしてそっと行ってみた自宅も、そこに由也の姿はなかった。
 何が二人の間に起こったのかわからないまま、二人の関係は終わっていた。探そうという気もあった。しかし何も言わずに消えた由也が、探して欲しいと思っているのか、思っていないのか、それすらも清香の想像を超えていた。
 結局、清香は何もしなかった。自分が悪かったのか、由也に思うところがあったのか、清香には考えても、考えても、何も分からなかった。
 そして、そんなことになって初めて、清香は自分が由也のことを何も知らないことに気づく。清香は自分の鈍感さに気づくことはない。そして夫の気持ちにも。
 そしてそんな自分を由也がどう思っていたのかさえ、あやふやに、清香の生活はまた日常に戻って行く。
 春になれば雪が融け、冬になればまた雪が降り積もる。清香の日常を変えることのなかったあの冬は、融けた雪とともに、大地に沁みこんでいったようだった。


 ――――― Fin.
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