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眠れぬ夜
 きぃっとドアを開けた。なるべく音を立てないように。
 鍵はさっき彼女が靴箱の中ほどに置いたのを見ていた。外から鍵をかけ、そっとポストに落とす。中に何か入っていたのだろうか、想像よりは静かに、鍵がカタンと落ちた。
 
 ぶるっと震える。先程までの暖かい部屋と外の落差が激しい。
 けれど、ソレはむしろ俺の頭をすっきりとさせてくれるには心地いいような気がした。
 さすがにもう、雪は降らないだろうが、それでも寒い。足音に気をつけて階段を降り、車へとたどり着いた。
 鍵を開け、エンジンを……と、違和感に気づく。鍵が刺さっている。
 そうだ、たしかなるべく早くに退散しようと思っていたから……スモールライトとか、もしかしてエアコンもつけてたか? 俺は固まってしまう。バッテリーが上がっていた。
 予備のキーを挿して、つけっぱなしで……腕時計を見る、いや、そこにはいつもの時計の姿はない。
 うわっ
 小さく声に出した。腕時計も忘れている。
 ジャケットのポケットに入っていた携帯に気づき取り出した。二時間近く、経っていた。
 
 部屋に取りに戻ろうとは思わなかった。仕方ない、歩くか。
 とは言え、ここから自宅までは2キロもないほどだ。先程までのことを頭の中で整理するにはこの寒空の下、歩くのも悪くないと思った。
 
 さっきまで、俺の腕の中に彼女がいた。
 
 手に入れたいと強く願っていた。でも俺は、棚ボタなんてものは、根本的に信じない性質だ。そして、彼女はそんなことでもない限り、手に入ることなんて、ないと思ってた。
 何度も、何度も彼女を抱く夢を見た。あと少し手を伸ばせば届くのかも知れないと思ったこともあった。でも、その勇気が出なかった。
 
 彼女の部屋の中で、彼女の様子が少しおかしいことに気づいたとき、俺は「もしかして」という甘い夢を捨てられなくて、そんな自分がいやで、でも想像してしまって、理性がどこかに行ってしまいそうで、でもそんなことになったら、きっと彼女との仲は壊れてしまう、というわけの分からない衝動で目一杯だった。
 そんな俺を押さえ込みたくて、あえて考えたくない彼女を想像した。ひどいことを言った。侮辱さえ、した。
 傷つけるかもしれないとは思ったけれど、理性が吹っ飛んで彼女を襲ってしまうくらいなら、ソッチの方がましだと、自分に言い訳をしていた。
 
 彼女が泣きながら「好きなんです」と言った時、俺は自分の中の凶暴な衝動が、するするとしぼんでいくのを感じた。なんて、あっけないヘタレな俺の恋心。たった、それだけで良かったなんて。
 あれだけ自分で否定しまくっていて、でも彼女の一言で、あっという間に自分の心の中が塗り換わっていくのが分かった。
 本当に? 本当に? なんどか、確認して、本当にそうなんだと実感したとき、すとん、と俺の中に新しい感情が生まれてきているのを感じた。抱きしめたい。大事にしたい。
 そこからはもう、止まることなんて出来なかった。
 ただ、彼女の中に入りたい、一つになりたい、とそれだけを願った。まるで、覚えたてのガキのように、ただ彼女の体をむさぼった。
 
 車にキーを挿していたことも忘れるくらい。腕時計をいつ外したのか、記憶にないくらい。俺の心は彼女で占められていた。
 

 翌日。
 はっきりと睡眠不足だった。今までも多少はこういうことがあったけれど、今日のこれはなんとも気恥ずかしい睡眠不足だ。
 彼女は出勤じゃないことだけが、せめてもの救いだった。
 
 携帯で車屋に電話をする。中学時代の同級生の家だ。今はオヤジとそいつと、二人でやっている。場所を説明すると、最初は普通に聞いていたのだが、切る前にくくっと笑われた。楽しんでやがるな、と思ったけれど、それは言えない。
 売り場のもう一人のスタッフは、俺に違和感を感じているようだったけれど、何も言ってこないので、俺も何も言わない。
 っていうか、……これから、どうするんだ? 俺。
 
 彼女――澪子は俺の上司だ。俺は彼女をサポートすることで、この会社の居場所がある。それはきっと、変わらない。
 そして、こんなことがなければ、彼女はいつかまた、転勤していくはずの人間で。あるいは俺だってさすがにそろそろ転勤の話が出てもおかしくはなくて。
 母一人、子一人ということは会社は知っているけれど、母親は普通に元気で、しかも今は働いたりしているんだから、俺の転勤だってあっておかしくはない、と思う。
 
 考えても仕方ないけれど。
 今の俺には、今の俺に出来ることをするしかないけれど。まずは彼女を守りたい。出来るものならば、ずっと一緒にいたい。――出来るもの、ならば。
 
 夕方、仕事を終えて、しばし考える。澪子の部屋へ行くとは言った。電話した。あまりにも不安で。自嘲する。いくつのガキだ。
 夕食を終えて、母親に告げた。
 「今日は、帰らないと思うから、閉めといて」
 「? 珍しい」
 「いいだろ」
 「いいけど」
 
 母親の意味深かつ問いたげな視線をびしびしと感じるけれど、とりあえずそれは無視する。
 「いまさら、グレたりはしないから」
 「そりゃ、分かってるけど」
 俺だって、母親がそういう意味で心配をしてるとは思ってはいない。
 けど、始まったばかりの俺たちのことは、どう言っていいのかも分からないし、何より照れくさすぎる。
 俺はそのまま家を出た。
 
 澪子の部屋まで。車はないから、歩く。最初はのんびりと歩いていたけれど、家に着くころには大分早足になっていて、そんな自分に笑った。
 「あ、えっと……」
 澪子の表情にためらいというか、引っ掛かりを感じる。
 「何?」
 「夢じゃなかったんだ」
 その澪子の顔が、本当にほっとした感じに見えたから、俺は力が抜ける。
 不安なのは、俺だけじゃなかったんだと改めて思ったら、ますます澪子が愛しくなった。
 「夢じゃ、ないですよ」
 昨日の澪子の泣き顔をふと思い出した。俺がもっと早くにきちんと告白してれば、あんなふうに泣かせることもなかったのに、と今さらどうしようもないことを考えてしまう。でも、もうあんな風には泣かせない。
 

 「やだ、もう、……藤尾さん、許して……?」
 息も絶え絶えに、澪子が俺を見上げている。今日の俺はいつにもまして意地悪な自覚は十分にあった。
 「イヤ、ですか?」
 
 ぶんっと、首を振る。
 「でも、こんなの……」
 恥ずかしい、だろうか、それとも?
 「じゃ、どうします?」
 「……知らない」
 両手を澪子の頭上でベッドに押し付けて、首筋に吸い付いた。あっ、と小さな声が漏れて、白い首がのけぞる。
 裸の澪子を見下ろすのは、あまりにも違和感と既視感があって、思わず笑ってしまった。普段は上司として対峙している女性のその姿と、何度も夢見たその姿と。引き倒して、押さえつけてこの思いを遂げたいと何度も思った彼女を、こうやって腕の中に抱きとめることの出来る幸せ。
 
 そんな俺の笑顔を見て、澪子はさらに泣きそうな、怨めしそうな顔になる。
 その視線の中にはいくらかの怯えも含んでいて、それは俺の中の意地悪な性分に火をつける。
 「どうしましょうか?」
 「……どうしたらいいの?」
 質問に質問で返すのは、追い詰められた澪子の癖だ。本人は自覚はないみたいだけど。
 「どうして欲しいですか?」
 「……藤尾さん、は?」
 絞り出す声に、わずかに震えを感じた。いつものパターンだと、気づいたのかも知れない。
 
 腕を押さえつけたまま、反対の手で澪子の髪を撫でた。
 「口で、してもらえませんか?」
 言った瞬間、わずかに澪子の視線が硬直したのが分かった。あまりにも分かりやすくて笑い出しそうになったけれど、それは面には出さない。
 「ダメ、ならいいですけど……」
 わざとしおれた声でささやく様に呟いた。
 「でも」
 「イヤ、ですか?」
 少し視線を伏せた後、もう一度尋ねた。
 
 こう聞かれた澪子が「イヤ」というはずもないのは、百も承知で。
 少し拗ねたような、泣きそうな顔が俺の嗜虐的な部分を刺激するとは、想像してもないんだろうな。
 「……んっ」
 澪子の口が、ゆっくりと自身を飲み込んでいく。わずかにつらそうな表情が、たまらなく色っぽい。
 「いい、ですよ」
 ゆっくりと頭をなでると、澪子も少し気分的に楽になるみたいで、口の中の動きがスムーズになった。
 
 激しい快感よりも、むしろ精神的な充足感を味わうものだと思う。いやもちろん、気持ちいいことはいいんだけれど。
 好きな女が「ここまでやってくれてる」というのは、やっぱりいいもんだ、と思った。
 
 とはいえ、これで終わってしまうわけにも行かないので、適当なところで止める。最初より澪子の顔はすこしぼんやりした印象で、澪子自身も少し感じちゃったみたいだった。
 「好きですよ」
 そうささやいて、膝の上に乗せた。ゆっくりと、自身を澪子の中に埋め込んでいくと、切なげに悲鳴を上げて、俺にしがみついてくる。
 「やだぁっ」
 紅潮した頬に口づけて、体を揺さぶった。力なく揺れる澪子の体とは裏腹に、中はきつく締め上げてくる。激しく何度か突き上げて、俺は果てた。
 体の上で、澪子が一瞬震えたのを感じた。
 
 「澪子?」
 「っ……」
 「何?」
 「う〜〜」
 唸るように小さく言って、俺にしがみついてくる。その仕草はまるで小動物のようで、俺は笑った。
 「どうしたんですか?」
 「――何でもない」
 我に返った羞恥に悶絶しているのだろうと、そのくらいは想像がついた。
 「言ってもらえないと、わかりませんよ?」
 「何でもないってば」
 俺の言葉に秘められた響きに反応して、澪子はなおさら顔を背けて、硬直している。やれやれ、と俺は呟く。その言葉に澪子がきっと顔を上げた。
 
 「こんなものでは終わりませんよ」
 そう言った途端、澪子は目を丸く見開いて、口をパクパクさせている。
 冗談なんだけど。いや、半分くらいは本気かな。
 こんな風になる前は想像もしなかった澪子の様子に、俺はかなり満足し、ゆっくりと笑ったのだった。
 
  ――――― Fin.

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