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 2.

 梅雨が明けたのは、それからまもなくのことだった。事務所の窓からは、裏手の山が見える。明けた途端に、山の緑が濃くなった気がしていた。本当は、ずっとじわじわと、濃くなっていたのだろうけれど。
 そして窓を閉めきり、エアコンをかけていても、窓際に行くと、うるさいほどのせみの声。毎年、どこから出てくるのだろうと思うくらいの、にぎやかな声が聞こえる。
 
 「毎日、暑くなって来たわねぇ」
 うんざりする口調で、チーフが言った。
 「今年は猛暑らしいですよ」
 昨日もテレビでやっていた。最近は猛暑か冷夏しかないんじゃないかと思うくらい、毎年どちらかで騒いでいる気がする。
 
 「あらやだ、じゃ、冬は寒いのかしらね」
 気の早いことを言いながら、チーフは伝票を繰っていた。
 
 次のシフトが出来てから、三日ほどが経っていた。タイミングが悪くて、シローくんとはなかなか会えないでいる。
 チーフが
 「うちのシフト、渡しておこうか?」
 と冗談混じりに言っていたけど、それはさすがにイヤだし。
 
 シローくんが誘ってくれたとき、結構「頑張って」誘った、っていう感じで誘ってくれたから、やっぱりちゃんと会って言いたいな、っていう思いはある。
 ……でも、別にそこまで考えなくてもいいかもしれないんだけど。
 そんなことを考えるのは自意識過剰かなと思ったりもするけど、私は私でシローくんに好意を持ってるのは間違いないから、まぁいいか。
 

 そして、そんなまま、三日が過ぎた。
 売り場に呼ばれて帰るとき、あぁ、多分また行き違っちゃってるな、とあきらめモードで事務所に向かっていた。
 階段を昇りきったところ。見慣れた、でもここしばらく見ていなかったシルエット。
 
 「お疲れ様です」
 シローくんから声を掛けてきた。会いたいと思ってたのに会えなかったからか、いざ目の前にするとなんとも言えない緊張が走って、そんな自分に少し笑った。
 「おつかれさま」
 笑顔で返すと、シローくんはそのまま、私の顔を覗き込む。
 「え?」
 「チーフさんが、深谷さん、探してたよって」
 その言葉に赤面した。でも、聞きようによっては、別になんともない言葉。
 「えっと」
 「休み、取れました?」
 普通に、なんでもないことのように聞かれた。
 うん、別になんでもないけど。ここしばらく、考えすぎてたのかな。一瞬辺りを見回して階段を少し昇った。
 
 ちょっと慌てたように、シローくんが付いてきて、隣に並ぶ。
 「あそこ、声が響くから、ね」
 聞かれて困るほどの話をするわけじゃないけど、誰かに聞かれたい話でもない。
 歩きながら、ポケットに入っている小さなメモ帳を出す。
 「次の次のね、日曜日」
 「はい」
 にっこりと――まさしくにっこりと言う感じでシローくんが笑った。
 その笑顔に、少し照れる。
 「行くところとか、決まってるの?」
 「――えっと。葉波って所、知ってます?」
 「名前ぐらいは」
 「一応、そこ、どうかな、と思うんですけど、深谷さんはどうですか?」
 
 実はこの町に来てから、海には一度も行ってない身としては、どうもこうもないんだけど。
 「よく分からないから、そこでいいよ」
 「じゃ、そこで……。あんまりメジャーじゃないですけど、その分海もきれいだし、岩場もあるし、こぢんまりしていい感じの浜ですよ」
 「そうなんだ」
 
 シローくんっぽくない感じで力説するからには、よっぽどそこが好きというか、気に入ってるんだなと思った。
 「そこ、よく行くの?」
 「えぇ、海っていったら、そこって感じですかね」
 誰と? と思わず聞きかけて、口をつぐむ。これじゃ、探ってるみたいだし。
 「そっか。楽しみ」
 そういうと、シローくんはちょっとほっとしたみたいに笑った。
 

 当日は、見事に晴れてくれた。肌に照りつける太陽は、気をゆるめると噛み付かれそうなほど強い。
 
 シローくんが家まで迎えに来てくれて、シローくんの車で行く。
 普段は配達用のバンしか見たことがなかったので、黒いスカイラインに乗って現れられたときには、一瞬びっくりした。
 それに服装だって、当たり前だけど普段とちょっと違うし。普段は「僕好青年です」って感じなのが、ちょっとくだけた感じになってて、戸惑いもあったけど、ちょっとときめいてみたり。
 まぁ、海へ行くのにあんまりきちっとした格好でも変だとは思うけどね。
 ただ、ちょっといつもより若く見えて、それにためらいを感じる。そう言えば、ちゃんとした年齢も知らないんだなぁ。
 
 私たちの住んでいる町から、その浜までは車で一時間ほど。
 途中までは知っている所を通っていたんだけど、ふと角を曲がったかと思ったら、いきなりぐねぐねの山道になる。
 シローくんと会話をしながらそこを通ってたんだけど、実際のところ心配になるくらいの山道だった。
 時々、山のカーブを曲がると、その向こうに海が見える。それ以外はむせる位の山の緑の中を走った。
 
 「そう言えば、深谷さんって、下の名前なんですか?」
 「え? 何、急に……繭子だけど」
 「すみません。いや、一応聞きたかったって言うか、そのー」
 「何?」
 「この前突然『シローくん』って呼ばれたんで、実はすっごくびっくりしたんですけど」
 え? と思ったけど。
 そういや、そうだわ。シローくんっていうのは私の中では大分前からシローくんだけど、仕事のときは「西風軒さん」って言ってたもんね。
 
 「あ、ごめん、やだった?」
 「いえ、イヤとかじゃなくて、驚いたなぁというか」
 「奥原さんが『シロ、シロ』って良く言ってんの聞くし、事務所に問い合わせある時も『シロー来た?』とか言うから……なんとなく、そんな感じになっちゃって」
 奥原さんというのは、日配品のチーフの名前。
 「あぁ」
 シローくんは納得したみたいに笑った。
 「そう言えば、奥原さんはシロシロ言ってますよねえ」
 「うん、それでつい、ね。ごめん」
 「いいですよ」
 「それに……実は苗字を知ったのも、ついこの間だったんだ」
 「え?」
 「てっきりアルバイトか何かかなぁって思ってて」
 「あー」
 「お兄さん? 社長さん? とも、あんまり顔似てないよね」
 
 そういうと、シローくんはちょっと吹き出した。
 「よく言われます」
 「だから、苗字知らないし、『西風軒さん』っていうのも長いし……つい、シローくんって」
 「なるほど」
 そんなことを言われると、シローくん、と呼ぶのもちょっと照れくさくなってしまう。でも彼はそんなに気にしていないみたいで、私もなんでもない振りをした。
 「シローくんで、いい?」
 「もちろんですよ」
 ちょっと嬉しそうな、楽しそうな笑い顔。少しほっとした。
 

 海へ着いたのは、10時ちょっと前。あいかわらずのぐねぐね山道を走っていて、「そろそろですよ」と言われたちょっと先に看板が見えたかと思ったら、小さな海辺の集落が現れた。
 一旦海沿いに出たけれど、車は止まらず、ぐいぐいと民家の中に入っていく。
 
 浜の方に駐車場の表示が見えたんだけど、そっちには行かないので、少し不安になった。
 でも、「よく来てる」と言ってたんだから、何かあるんじゃないかと思うと、それを尋ねようとは思わなかった。
 
 やがて幾つかの軒先を通り過ぎた後、車はその中の一軒の庭へと入っていく。
 庭……としか言いようのない気がするんだけど、でもそこにはすでに一台車が停まっている所を見ると、こう見えて駐車場なんだろうか。
 「着きましたよ」
 シローくんがそう言うので、とりあえず荷物を持って降りた。
 思わずきょろきょろと辺りを見回してしまう。どうみても、古い日本家屋にしか見えない。
 
 「どこ?」
 「いつも、ここに来てるんですよ。浜からはちょっと距離ありますけど、駐車場とか、荷物の番とか、気にしなくていいから、結構いいですよ?」
 ……シローくんの言ってることは、半分くらいしか意味が分からなかった。
 いや、言葉の意味は分かるんだけど、それがどういうことなのか。
 
 普通の家に見える。知り合いの家とか、なんだろうか。そう思うとちょっとだけ緊張して身構えてしまう。悪いことしてるわけじゃないけど。
 なんていうか、心の準備というか、そういうものが。
 でも、そんな私を知ってか知らずか、シローくんはすたすたと歩いていく。私も自分の荷物を持って、後へと続いた。
 
 庭みたいな駐車場みたいなスペースを出ると、そこにさっきは気づかなかった玄関。その脇に民宿の文字。
 え? と再び固まる。民宿って……泊まりってわけじゃないよね。一瞬驚いたけれど、さすがにそれはないだろうと思い直す。ってまぁ、そもそもそんなの、無理だし。明日は仕事だ、二人とも。
 
 私たちの声や足音に気づいたのか、それともたまたまそこにいたのか、玄関の脇から、中年の女性がひょいと顔を覗かせた。
 「こんにちは」
 シローくんはその人を知っているみたいに、挨拶をした。
 「あらー、西垣君? 久しぶりねぇ」
 「ご無沙汰してます」
 顔を見て名前が分かるっていうことは、やっぱり知り合いってことで、海へ来たらここへ来てるっていうのも、あながち嘘じゃないんだ、とそんなことを思った。嘘だと思ってたわけでもないけど。
 
 「今日、大丈夫でしたか? お昼も」
 「えぇ、大丈夫よ」
 と、二人はなにやらしゃべっている。私はと言えば、状況は分からないし、なんていうか私の中の「海へ行く」と言うことと、現実がどうにも結びついてこなくて、ちょっと混乱していた。
 「深谷さん、何か食べれないものとか、ありますか?」
 シローくんが突然こっちを振り返って私に聞いた。

 「え? 食べれないもの?」
 「あれがダメとか、アレルギーとか」
 「あぁ、えっと、特にない、と思うけど……」
 まぁ、好んでまで食べないものはないわけではないけれど、多分ここで聞かれてるのはそう言うことではないんだろう。
 私のその言葉で、シローくんはまたその女性と何か一言二言しゃべって、こっちへと向き直った。
 「じゃ、行きましょうか」
 ……どこへ?
 心の中で突っ込みを入れる。っていうか、誰か説明して!
 
 とりあえず、私の心の叫びは聞こえなかったみたいで、シローくんはそのまま歩き出した。
 「ね、ちょっと、どういうこと?」
 仕方ないので、少し小走りに追いかけて、シローくんに尋ねる。
 「え?」
 少しきょとんとした顔をされてしまう。
 「ここ、民宿だよね。何? どうなってるの?」
 私の言葉に、シローくんは私の状況をやっと理解できたみたいだった。
 「あ、すみません、こういうところ、もしかして初めてですか?」
 「初めても何も……民宿って所は知ってるけど、利用するってのは初めてだし、そもそも民宿って泊まるところなんじゃないの?」
 「あー、そうなんですけど、この時期は海の家みたいな感じっていうか……」
 「え?」
 「休憩所と、シャワーと……電話しておけばお昼ごはんも出してもらえるし。ここは父親と昔から親しくさせてもらってて、店とか、会社の人で来るときとかにも、よく来るんですよ」
 
 そう言っている間にも、私たちは靴を脱いで、中に入っていて、そしてシローくんの肩越し。
 「うわぁっ」
 開け放たれた縁側。眼下に広がる海。
 広めの和室には、私たちの他に二組ほどの家族連れがいた。
 海にはすでに、そこそこの人数の影が見える。青々とした海面には、ところどころにカラフルな浮き輪と、そして白い波。
 
 シローくんは一瞬立ちすくんだ私を振り返って、少し笑って
 「ね、いいでしょう?」
 と言った。
  

 少し恥じらいつつも、水着になって、シローくんと一緒に海へと向かった。
 ゴムぞうりを持って来ていたので、民宿の縁側から、それを履いて海へと向かう。なんだか海の近くの親戚の家にでも遊びに来ているみたいだなぁと思って、それも悪くないと思った。
 それだけでも、ちょっとだけ、子供の頃に帰ったような気がするし。
 
 小さめのレジャーシートに、タオルを置いて、海へと入った。貴重品は全部置いてきていたので、たしかに気は楽で、のんびりと海の冷たさを楽しんだ。
 途中、一回浜に上がって休憩。
 やることがある間や、海の中だとそこまででもないけれど、陸に上がると目のやり場にちょっとだけ困ってしまう。
 シローくんもそれは同じみたいで、砂浜で二人並んでいるときだけは、微妙に口数が少なくなってしまった。
 
 でも、普段重たいもの運んだりしているだけあって、シローくんの体は、やけにかっこよかった。
 
 で、午前中が終わって、昼過ぎ。正午には結構お腹がぺこぺこだったけれど、それはなんとなく恥ずかしくて口に出せなかった一時前。
 「そろそろ、食事にしますか? お腹すきました?」
 「うん、実は結構空いちゃった」
 「え? 早く言ってくれたらよかったのに……って、気づかなくてすみません」
 「いや、なんていうか……シローくんは悪くないから」
 なんて会話をしつつ、レジャーシートをたたむ。
 
 「午後からも、海入りますか?」
 「あー。どうだろう」
 「食事してから、考えますか?」
 「そうだね」
 
 二人で並んで歩いて、民宿へと戻った。
 歩きながら、結構疲れていることに気づく。シローくんはどうなのかな?
 
 民宿へと戻ると、すでに他の家族は食事を終えたみたいで、片づけが始まっていた。
 「お帰りなさい」
 先ほどの女性がそう言って声をかけてくれた。
 水着のままでも大丈夫なように、一応座るところにはレジャーシートが敷いてあるけれど。
 「どっちでもいいですよ」
 そう言われて、シローくんの顔を見た。
 「着替えて、来ようかな」
 「疲れました?」
 気づいていたみたいにシローくんが言ったので、ちょっとほっとする。
 「うん、ごめん」
 「じゃ、着替えましょうか」
 
 シャワーは普通の民家の風呂場のシャワーなんだけど、さすがにこういう所だけあって、二箇所ある。もう、私たちだけなので、シローくんと私はそれぞれ別々に使えたので、そんなに時間もかからなかった。
 
 さっきの和室に戻ると、食膳の上には、ほかほかの昼食が、ちょうど用意されてたところだった。

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