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 1.

 時計は2時を少し回っていた。昼食にはやや遅い時間、と思われるかも知れないが、緋音(あかね)はいつもこのくらいに昼の休憩を取っている。
 弁当を広げ、黙々と口に運ぶ。こんな時間ではあっても、従業員食堂には片手に余るほどの他の人がいたし、もう30分もすれば、こんどは午後の一休みのメンバーが立ち寄り始めるだろう。新年の喧騒をなんとか乗り越え、売り場は落ち着きを取り戻しつつある頃だった。
 
 そそくさと食べ終えて、片隅にあるソファが並んでいる休憩コーナーへと場所を移した。食事用のテーブルと違い、そこはどちらかと言えば片隅で、他には誰もいない。
 メールをチェックして、小さくため息をついた。
 「今日、会えないか」
 
 手が、なんども伸びては、戻ってくる。予定があるわけではない。けれどここしばらく、素直に応じられない自分がいた。
 
 相手は取引先のメーカーの営業所長だった。営業の担当者の、上司。道下という。
 緋音が今の店に異動になって間もないころ「食事でも」ということでそのメーカーの当時の担当者と、緋音の上司と4人で食事に行ったことがある。
 その時に気に入られた、らしい。40代半ばの、でもとてもそうは見えない若々しい、好もしい人だった。ただ一つ、妻も子供もいることを除いては。
 
 初めて二人で食事をしたのは、その食事会から、半年も経ってからだった。時々店に立ち寄る度にこまめにその社の美容部員と共に声をかけてくれて、冗談交じりに食事に誘われてはいたけれど、イエスと言ったことはなかった。
 ただ一度、それでも、その時だけは「行ってみてもいいか」と思ってしまったのだ。
 そのままずるずると、男女の関係に陥り、今もそのまま続いている。
 
 疲れていたのだと思う。やけっぱちとまでは行かないけれど、優しい言葉をかけてくれて、緋音のことをかわいいと言ってくれて、まるで父か兄のようにかわいがってくれている大人の男の包容力が、緋音に「ま、いいか」と思わせたのだ。
 
 その夜、結局、緋音は道下と会うことにした。予定のない夜。断る理由が浮かばなかったというのが一番の理由かもしれない。
 
 「元気だった?」
 「はい」
 食事でも、と言われていたが、二人が行ったのは小さな、なんどか来たことのあるバーだった。
 男女の関係になってからしばらくは、道下はそれなりにあれこれ連れて行ってくれて、緋音にとっては未知の世界を教えてくれる存在だったが、今はどちらかと言えばただの体の関係のある都合のいい女になってしまっているように思えて仕方ない。
 緋音が素直に道下との逢瀬を喜べないのは、その辺りも原因の一つだった。
 
 スナックをつまみ、少しお酒を飲んだら、どちらからともなくホテルへと向かう。
 
 「しばらく会えなかったね」
 道下の言葉は優しい。
 たとえ心のどこかに違和感を持っていても、道下の言葉は緋音を癒してくれるものに違いはなかった。
 「あいかわらず、可愛い」
 道下は、緋音の心を分かっているかのように、甘い言葉を繰り返す。心のどこかで違うと思っていても、面と向かってささやかれれば、心はどうしたってほぐれて行くに決まっているのだった。
 
 道下の指が、緋音の首筋を這う。
 ゆっくりと耳たぶを指で辿り、大事に、大事に、まるで壊れ物でも扱うかのように愛撫を重ねていく。そうなってしまえば、もう緋音には抵抗する気力など起きない。
 「僕に会えなくて寂しかった?」
 「……会いたかった」
 嘘ではない。道下との時間は心地よいもので、それに飢えていたことは間違いないのだから。
 そして緋音のその言葉は、道下を満足させるものだった。嬉しそうな顔をして、緋音をギュッと抱きしめる。その瞬間の、一瞬少年のような顔になる道下の表情が、緋音は一番好きだった。
 「僕も会いたかったよ」
 それが道下の本心であるかどうか、緋音には確かめる術はない。
 ただ、それが少なくとも緋音の歓心を買おうとして紡ぎだされる言葉なのは間違いがなくて、そして道下の思惑通り、その言葉に緋音の心も、体も緩んでしまうのだった。
 
 「何か、変わったことでもあった?」
 「え?」
 いぶかしげに見上げた緋音に、道下が少し苦笑した。
 「特に、ないですけど」
 「そう」
 「どうしてですか?」
 
 「なんでもないよ、どうかなと思って」
 歯切れの悪い言葉に、思わず緋音はクスリと笑ってしまう。緋音の心の移ろいを見透かしているかのような言葉に思えた。
 「何も」
 道下を、そして自分を安心させるかのように、緋音はつぶやいた。そう、何もない。変わったこともないかわりに、二人には未来もない。それに気づいただけ。
 でもそれは、今さらだった。
 初めから分かっていたことだった。
 
 道下の指が、緋音の耳をなぞる。指はやがて下に降り、首筋へとたどり着く。その感触に緋音は少し首をすくめた。緋音の弱い所をすでに道下は知り尽くしている。
 自分を焦らせるかのように、体をそらし、緋音は道下の唇を求めた。
 
 唇を合わせ、離し、舌をつつきあい、絡ませる。一旦は少し身を離した緋音の体を、道下は気付くと抱き寄せ、また執拗に耳から首筋へと指を這わせた。
 「んんっ、もうっ」
 少し拗ねたように、怒ったように抗議する緋音に、道下は頓着しない。緋音の脚の間に自らの半身を割りいれ、舌を吸い上げるように執拗に口内を追い回し、緋音を追いつめる。
 
 「触って」
 緋音の手を、分身へと導く。
 緋音はゆっくりと撫で上げた。毎度しているのに、それでも毎回、抵抗を感じる。恥ずかしさと、自分から道下を求めていることを求めることに対するちょっとだけの悔しさと。
 「いい子だ。かわいい」
 そんな緋音を見透かしたかのように、道下は満足げに微笑んだ。
 
 いい子だ、と道下はよく口にした。
 そう言われると、緋音はどうしようもなく嬉しく、満たされた気分になる。
 そう言われることで、道下の満足を感じることが出来るし、自分の存在を認められた気持ちになった。必要とされている、とまでは行かなくても「意味のある存在だ」と言われている気分になる。
 「緋音のこんな顔を知っているのは、僕だけかな」
 うっとりと道下の分身をいつくしむ緋音の髪をなでながら、道下が言った。
 「おいで」
 
 抱え上げられ、膝の上へと載せられる。緋音が先ほどまで口で愛おしんでいた道下の分身は年の割には凛々しくそそり立っていた。
 上へと腰を下ろさせる。
 「あっ、ねぇ、もう……だめ、」
 自ら腰を押し付け、揺れる緋音に、道下は少し顔をしかめた。
 「そんなにしたら、すぐイっちゃうよ」
 
 「だって、我慢できない……」
 「つらいの?」
 「つらくない、でも……」
 「動いたらダメだって」
 
 動きを止められ、緋音は道下の膝の上で軽くもがいた。求めたいのに求められない。
 「お願い、もう、……」
 「ダメ?」
 こくりとうなずく。そんな緋音に道下は満足そうに笑って、緋音を下へと降ろし、そして組み伏せる。
 
 「あっ、いい……」
 突き上げられ、緋音は一気に達してしまった。それから数度、翻弄されるままに、ただ声を上げた。喘ぎ、小さく悲鳴を漏らし、道下の動きを受け止める。中がなんどか大きく収縮するのを感じ、そして脱力する。その瞬間道下も達したことを知った。
  


 その日は珍しく、緋音は少し早目の休憩に入っていた。
 売場の美容部員たちも二人、ともに食事を取る。
 「緋音ちゃんって、いつも丁寧に作ってるよね〜」
 「そんな風に見えないのにね」
 手作りの弁当を見て、彼女たちが笑う。いつも手作りの弁当を持参しているが、主婦でもある彼女たちと比べても遜色のない弁当の内容に、彼女たちは感心しているようだった。とはいえ、それは毎度の社交辞令のようなものでもあり、珍しい反応でもなかったので、緋音は笑ってごまかしつつ、食事を終えた。
 
 「なんかいいこと、ないかな〜」
 「ないない」
 「面白いことでもいいんだけど」
 「それより、うち、今年の異動が心配」
 
 聞くともなく聞いていた緋音は、その言葉にびくりとした。
 「異動? そろそろ時期だっけ?」
 「そうなのよ〜。所長とか長いし、そろそろかなぁって話してる所」
 
 道下のことであった。
 たしかに道下は、緋音が着任した時すでに居た。もう4年も前のことになる。異動の話が出ても何の不思議もない。むしろそれを考えたことのなかった自分を不思議に思うほどだった。
 「川崎さんは大丈夫なの?」
 「うん、私はね〜 もうちょっとは大丈夫かな。リバティマートは変わるかもだけど、多分あったとしても近辺だと思うな」
 「そうなんだ」
 川崎の言葉にホッとした顔を作りながらも、心の中では動揺をしている自分を感じていた。まずい、ちょっと席を外した方がいいかも。そう思った瞬間だった。
 
 「緋音〜、ちょっとごめん」
 社員食堂に入るなり、緋音を見つけ、まっすぐ向かってくる人影。
 緋音と同期入社のケイの姿があった。
 
 ケイとはさほど仲良くはないが、それでも同期入社。休憩が重なれば、時には食事を共にすることもある程度には仲が良い。
 
 「どうしたの? わざわざ?」
 思わず席を立ちかける。ちょうど考えたくないことから意識をそらしたいという気持ちもあった緋音としては、少し救われた気分にもなった。
 「こんど、澪子が結婚するでしょう? 結婚式とかはあっちでするんだけど、2月に帰ってくるんだって。で、同期でお祝いの席をもうけようかっていう話があって」
 「あ、帰ってくるんだ〜」
 澪子とも、時々はメールのやり取りをする程度には仲が良い。本社に会議で行ったときにはすれ違うことなどもあり、立ち話程度であれば年に2〜3回は会っているだろう。
 
 緋音の入社した年は、ちょうど新店の出店を控えていたため、同期入社も多かった。そして今も頑張っている者も多い。
 「どうかな?」
 「え、ダンナさんも一緒に?」
 「どうせなら、ねぇ?」
 前に聞いたときの彼と結婚するのならば、彼も同じ会社だ。
 「ダンナさんの友達とかは?」
 「ん〜わかる範囲で声掛けるつもり。いいでしょ?」
 「もちろん」
 近場の同期を誘うと言っても、多分片手くらいである。二人の結婚を祝うのに、多くて悪い理由はなかった。
 
 「ん、じゃあ決まったらまた連絡するね」
 「お願い」
 ケイは言いたいことを言って、決めたいことを決めたという顔をして、足早に立ち去った。おそらくはその足でまた、他の誰かを探しに行くのだろう。
 
 「何だったの?」
 「あ、同期で今度結婚する子がいるんですけど、お祝いに集まろうって話で」
 「いいね〜」
 にこにこしながら、川崎が同意した。
 「緋音ちゃんはそんな予定はないの?」
 「その前に彼氏ですよ〜」
 思わず苦笑する。そんな相手のいないことは、川崎だってよく分かっているだろうにと思う。
 「緋音ちゃん結婚するときは、うちの所長泣くだろうな〜」
 「えー、そんなことないでしょ」
 「だって、めっちゃお気に入りじゃん?」
 「そうですか?」
 
 きっとそういう話になるだろうな、と思っていた分だけ、余裕で流すことが出来た。でも道下は、本当に泣いてくれるだろうか。平然としている様子なら想像できるけれど、それはそれでなんだか寂しい想像だと緋音は思った。
 かといって、取り縋られても困るだろうけれど。
 
 少しは寂しがってくれるだろうか。そんな道下の姿を想像して、少し気分が晴れる気がした。そういう道下の姿を見てみたい、とも。
 突然湧いたその欲求は緋音を戸惑わせる。それはどういう気持ちなのだろう。
 嫉妬させたいのだろうか。それもなんだか違う気がした。復讐したいのだろうか。何に? 道下を慌てさせたい? どうして?
 
 どの気持ちも当たっているような気もしたし、はずれているような気もした。
 それでも、少なくともその想像は、緋音の心を少しだけ明るくしたことは間違いがなかった。そんな自分を不思議に思いながらも、時間が過ぎ、緋音は業務へと戻ることにした。
 

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