Index

 4.通り雨
 
 この時期にしては珍しく、数日雨が続いた。
 久しぶりの晴れ間。
 「藤森、川口、今日な、川崎倉庫、ちょっと行ってくれ」
 二人は朝一番に、チーフからそう告げられた。
 「川崎倉庫、ですか」
 和哉は名前こそ聞いたことはあるものの、そこを訪れたことはなかった。
 「何ですか?」
 「本社と一緒に、掃除をしてしまうから」
 通常は、チーフが行くのが常ではあったが、その日はあいにく、店内のミーティング入っているということで、チーフは行けないのだという。
 
 「構いませんけど」
 そう答えた煌乃の胸には、少しだけ、先日の会議のときに味わった、なんともいえない苦味が広がる気がした。
 誰が悪いわけでもない。ただ、もう少しだけ、考えずに済むのなら、とそんなことを思う。それはただの逃避だと言うことは分かっているけれど。
 
 一方でそんな煌乃の心境には気づかない和哉は、
 「川崎倉庫って行ったことないんですけど」
 と別の心配をしている。
 そんな和哉を見ながら、煌乃は少しだけ気が楽になるのを感じていた。
 
 川崎倉庫は、本社と野分店とで共同で借りている倉庫だ。共同で、と言っても中は一応区切られているので、一緒に掃除をする必要はないと言えばないのだが、それでも年末のこの時期「きれいにしたい」と思うのはどちらも一緒のことで、大抵は共同で大掃除をするのが例年のことだった。
 それに、双方から人員を出したほうが、人手、と言う意味では効率的でもある。
 店から徒歩十分。二人は倉庫へと到着した。
 
 「あ、お疲れ様ですー」
 本社の物流の女性スタッフが煌乃の顔を見て声をかけた。煌乃は上着を脱ぎながら、本社の人間と挨拶を交わした。
 「そっちの方が、例の新人さんですか?」
 「例のって……」
 「あ、チーフさんが言ってたんで。すみません、失礼ですね。別に何かを聞いているってわけじゃ、ないんですけど」
 ぺろっと舌を出して、そう言う。
 「すみません」
 和哉に向けても、そう言って謝る。
 「いえ」
 和哉はなんと答えていいものか分からずに、あいまいに微笑んで見せた。
 
 和哉にとっては、本社のスタッフと話すのは初めてのことだ。本社からは三名が来て、すでにおのおの分担してすでに掃除を始めているようだった。
 脱いだ上着を入り口付近に置き、用意されていたジャンパーを羽織る。
 「人手いる時には、声かけてくださいね」
 煌乃はそう言って、野分店で借りている部屋へと入った。
 店から距離がある分、頻繁に使うわけではない。何だとも定かでない細かい埃が、ふわふわと舞っている。
 
 「はい、これ」
 煌乃からマスクを差し出される。おそらくは用意していないだろうと踏んで、煌乃が和哉の分まで持ってきていたのだった。
 「あ、すみません」
 初めての場所、初めての仕事。何から手をつけていいかも分からずに、和哉は呆然と立ち尽くした。
 
 「とりあえず、水、汲んできて」
 どこからか煌乃が引っ張り出してきた大ぶりなバケツを渡される。言われるままに建物の裏手に回ると、地下水を引いているらしい蛇口があった。
 空にはきれいな青が広がっている。わずかに西の方、建物の隙間から見える空にはいくらかの雲が立ち込めていて、この爽やかな天気もまた、あまり長続きはしない風に思われた。
 雨後ということもあって、空気はぴんとしている。
 先程の埃っぽい空気を思い出して、思わず和哉は、深呼吸をした。
 
 マスクを掛けて建物の中へ入ると一転、もうもうと埃が舞い上がり、その中ではすでに煌乃がはたきをかけ始めていた。
 「すごいですね」
 思わずもれた言葉に煌乃は振り返る。
 「あ、じゃあ、雑巾しぼって」
 「はい」
 上着を着替え、マスクをつけた意味が、骨身に沁みるほどの埃の量だった。

 

 昼食時、本社のスタッフは車で昼食に出かけていった。煌乃たちも誘われたのだが、なんとなく気後れして、断ってしまい、時間をずらして、二人で近くの喫茶店へと向かった。
 「そういえば、藤森さんと食事するのって、初めてですよね」
 「そういえば、そうね」
 普段は一緒に休憩を取ることはない。事務所で一緒にコーヒーを飲むことはあっても、食事を共にするのは初めてだった。
 
 そう言われてしまうと、なんとなく緊張して、煌乃は食事を取った。普段はほとんど意識したことはないように思うのだが、ふとした拍子に最近和哉のことを意識しないでもない自分の心境。そんなことを思う。
 少なくとも慕ってもらっているとは思うのだが、ここしばらく、なんとなくそれだけでもないのかな、と思う瞬間があって、けれどそれは自惚れに思えて、煌乃の心の中に戸惑いがある。
 おまけに同僚と来ているものだから、変に意識して、仕事に差し支えるのも本末転倒だ。
 
 ――だって、何か言われたわけじゃないし。
 それが常に煌乃の結論だった。
 言われてない、それだけのことではあったのだが、じゃあ言われたらどうするのだろう、という仮定は、煌乃の中ではないことになっていた。
 
 昼食を終え、外へと出る。昼前にはあんなにきれいに広がっていた青空も、今はどんよりと雲に覆われていて、煌乃は驚いた。
 「先に、外をしてしまった方がいいかも」
 「外?」
 「周りの草取りとか、片付けもあるのよ?」
 「えぇっ、そうなんですか!?」
 
 朝、到着したとき、天気は下り坂であろうことは、和哉には想像がついていた。外周りの仕事があると知っていたら、先にそれを煌乃に伝えていたのに、と今更思ってもすでに遅い。
 わざわざ謝るのも違う気がして、和哉は結局何も言えなかった。
 
 倉庫まで戻ると、すでに本社のスタッフは、外周りの自分達の分担分までほとんど終わったようで、すでに帰り支度を始めている雰囲気だった。
 「降りそうですね」
 「そうですね」
 「気をつけて……」
 
 本社のスタッフを見送りつつ、二人は二手に分かれて草をむしっていく。そうしている間にも、雲はみるみる濃さを増していっている。遠雷もわずかに聞こえるようになっていた。
 降りだした、と気づいたときには、もうかなりの量の雨が降り始めており、それはさながらスコールのようだった。慌てて目で合図をし、道具とごみをまとめ、引き上げる。二人そろって倉庫の入り口の扉の前に立ったときには、濡れねずみの様相を呈していた。
 
 「いきなり降ったわねぇ」
 半分呆れたような口調で、煌乃が言った。
 「ですねぇ」
 ジャンパーは一応撥水加工がしてあったらしく、和哉はほとんど濡れていなかった。
 「ちょっと待って、タオルあったかな」
 くしゃん、と煌乃がくしゃみをして、奥へと向かう。
 手には新品のタオルを持って、倉庫内の事務所へと戻ってきた。
 
 「エアコン、つけちゃう?」
 「動きますか?」
 「埃だらけ……かな。やめとこうか」
 先程まで体を動かしていたため、さほど寒くは感じられなかったのだが、それでももう十二月も下旬に差しかかろうという頃だ。
 すぐに体が冷えてくることは、分かりきったことだった。
 
 和哉はとりあえず、自分の頭を拭くと、煌乃に向き直る。煌乃の髪は少し長めで、一応はまとめているものの、雨をかなり吸っているようだった。
 
 「藤森さんのタオルは?」
 ふと気づく。煌乃は濡れたままだった。
 「あ、大丈夫、大丈夫」
 確認せずに、自分が先に使ってしまったことを、少し悔やんだ。顔色もいささか悪くなっているように思える。
 「ちょっと濡れちゃいましたけど」
 「え? いいよ……」
 煌乃は言葉ではそう言ったものの、和哉のタオルを受け取る。それでも、そのタオル一枚では髪の毛から滴る水を拭う程度にしかならなかった。
 
 そしてもう一度、ちいさなくしゃみ。
 「寒いでしょう?」
 和哉は思わず手を伸ばし、煌乃の手に触れる。髪の毛の水気を取ることに夢中になっていた煌乃は、びっくりして和哉を見上げた。
 「ダイジョウブだってー」
 そういう煌乃の手は、かなり冷え切っていて、和哉は辺りを見回した。
 カウンターまで行き、二人の上着を取りに戻る。
 「とりあえず、ジャンパー脱いで、これに着替えたほうがいいですよ」
 
 「そうかな」
 撥水加工がしてあるとは言え、一重のジャンパーでは保温効果はないだろう。煌乃は自分の上着に着替える。が、それでもやはり今の時間で体が冷えてしまったらしく、ぶるっと震えたのを和哉は見逃さなかった。
 「これも、着て下さい」
 自分の上着を煌乃に掛けた。
 「いいってば。川口君が寒いじゃない」
 「俺はそうでもないですよ」
 ジャンパーのおかげで上半身は濡れなかったし、髪の毛も短い上に煌乃より先にタオルを使わせてもらったため、ほとんど水分は残っていない。
 「いいから」
 強めの口調で言って、強引に煌乃にかぶせ、前を合わせた。
 それはまるで娘に上着を着せ掛ける父親の姿のようで、煌乃は思わず笑ってしまう。
 
 「藤森さんは、もうちょっと俺に頼ってくれたっていいんですよー」
 少しぼやくような口調で、和哉が言った。
 手は煌乃の頭上のタオルに置かれて、心配そうにごしごしっとこすっている。暖かくて、力強い手だと思った。腕越しに煌乃は和哉を見上げる。少し怒ったような、拗ねたような顔が見えた。
 煌乃の中に、少しいたずら心にも似た気持ちが湧き上がる。少しからかってみたいような、ちょっとしたいたずら心。
 
 「ねぇ? そんなに私に触れたいの?」
 
 いつかの、仕返しのつもりだった。和哉が覚えているかどうかは分からないけれど。
 「え?」
 和哉は手の下の煌乃を見下ろした。煌乃の目がきらきらといたずらっぽく笑っている。からかわれている、と一瞬で気づいたが、煌乃のその表情と、それから「触れたい」という普段あまり使わない言葉、濡れた体から立ち上る煌乃の気配、そんなものに圧倒されて、リアクションを返せない。
 和哉は顔がかっと熱くなるのを感じた。何を言っているんだ、という思い。からかわれた、と知った恥ずかしさ。
 そんな和哉の表情を見て、煌乃に一瞬戸惑いが浮かんだ。けれどそれを無視して、和哉は無意識のうちに反撃に出てしまった。
 「……触りたい、と言ったら?」
 
 言った瞬間、後悔した。けれど。
 煌乃の薄紅い唇がゆっくりと「いいよ」と動いた。
 
 手を伸ばす。肩からゆっくりと手を回した。煌乃に抵抗する様子はない。それが逆に和哉を不安に陥れた。
 「自惚れて、しまいそうなんですけど」
 「何を?」
 うっ、と詰まる。ここで質問で返されると予期しておらず、和哉はしばし言葉を選んだ。それはまるで腹の探りあいのようでいて、あるいは気を緩めることの出来ない真剣勝負のようでもあった。
 
 「そんなに、俺のことが好きなんですか?」
 煌乃の口調を少しばかり真似したつもりだった。言って、引き返せない所まで踏み込んだことを感じたが、そんな和哉の様子にはまったく頓着していないみたいに、その瞬間煌乃が笑った。
 
 「さぁ?」
 かすかに小首をかしげて、煌乃は和哉の目を見つめていた。
 
 さぁ? だと?
 煌乃の言葉を反芻する。「さぁ」かよ、と和哉は心の中で叫んでいた。それはこの期に及んで、これ以上はないくらいのはぐらかしだった。
 降参、と和哉は心の中でつぶやく。
 言えるものならば、ボクが悪かったです、ゴメンナサイとくらいは、言っていたかも知れなかったが、そこまでの余裕は、すでになかった。
 
 「俺は、好きです」
 言葉にすると、自分を抑えられなかった。煌乃の頬を軽く撫で、唇を重ねた。煌乃は目を閉じて、和哉の唇を受け入れる。しばらく煌乃の唇を堪能した後、するりと舌を滑り込ませた。
 「っふ」
 かすかに、煌乃の息が漏れる。角度を変え、煌乃の髪に手を差し込み……まだ、煌乃の体と髪が冷え切っていることに気づいた。
 頬から首筋へとゆっくりと指を這わせる。和哉の指の冷たさに、煌乃がぴくりと反応した。やめようと思うのに、和哉はその手を離せないでいた。
 何度も、何度も「もう少し」と思う。
 愛撫とも、抱擁ともつかないその仕草は、煌乃を戸惑わせた。
 そしてその時、まるでどこからか見てでもいたかのように、煌乃の携帯が鳴り響いた。
 
 和哉は最初、何が起こったか分からないでいた。煌乃がゆっくりと和哉から体を離す。少し照れくさそうに笑って見せてから、電話を取った。
 「はい、あ、そうです」
 もれ聞こえる声から、チーフからの電話だと分かる。
 「え? あぁ、はい、お願いします」
 煌乃の視線が、ちらりと和哉を見上げた。
 切ってから、和哉に向き直る。
 「チーフ、迎えに来るから表に出とけって……」
 「はい」
 それ以外に、どう答えろと言うのだろう、そう思いつつ、和哉はのろのろと出口へと向かう。戸締りを確認して回ってきた煌乃が玄関に着くのと、チーフの車が横付けされたのはほぼ同時だった。
 
 「おつかれさん、って、なんだ藤森、いいもん着せてもらってるな」
 煌乃の羽織っている上着に目を留める。
 「あ、えっと」
 「川口は大丈夫だったのか?」
 「えぇ、まぁ…… 藤森さん女性だし、髪の毛とか結構濡れちゃってたんで」
 「突然だったもんな。まぁ外、出たらやみそうだったんだけど、もう時間も時間だし……」
 チーフの言葉に思わず二人して空を仰ぐ。たしかに先程よりはやや雲は薄くなっている気がした。それにわずかに西の方には雲の切れ目も見えた。
 「通り雨か、夕立かってとこだな」
 「ですね」
 煌乃が相づちを打った。
 その横顔を眺めながら、和哉はどこからとも知れず、不安が湧き上がってくるのを感じていた。

Back    Next    Index

(c)Copyright 2002-2007 Kisaragi Iroha. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission