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 3.変わりゆくもの

 月が替わり、いよいよ年末、師走を迎えた。
 十一月も下旬になった頃からお歳暮商材は軒並み売上を伸ばしており、商品の配送が増えれば物流の仕事も必然的に増える。その分、通常の仕事も押されて、全体的にあわただしく、タイトなスケジュールになっていくのは仕方のないことだった。
 
 「藤森さん、そこ、あとどのくらいかかりますか?」
 和哉が自分の机から煌乃に尋ねる。
 煌乃はPOSの端末の前にすでに一時間近く陣取っていた。
 「ごめん、えっと……もう二十分くらい、かな。急ぎ?」
 「いや、俺のは今日中でいいんですけど、大分かかってるなと思って」
 「そう? ごめん、もう少し急ぐね」
 「そうじゃないですって」
 
 ふと聞こえた声は先程までと違って、すぐ後ろ。
 煌乃は違和感を感じて振り返った。和哉がいすのすぐ後ろに立って、煌乃の手元を覗き込んでいた。
 「そんなにあるんですか?」
 「そう言うわけじゃないんだけど」
 煌乃はとっさに手元を隠す。
 実は和哉には言っていなかったが、最初の二十分ほどは、煌乃の勘違いにより、まったく違うことをしてしまっていたため、それをやり直しているので時間がかかっているのだった。
 
 「隠さなくても……」
 苦笑混じりに和哉がそんな煌乃の様子を眺める。
 「――えっと、ここ使いたいんだったら、先にする?」
 「違いますって。手伝いますって言ってるんですけど?」
 「え?」
 「ずーっと、そこでやってるでしょう? 少し休憩入れないと、疲れちゃいますよ」
 
 煌乃たちの業務はパソコンに向かっていることが圧倒的に多い。その為定期的に休憩を入れて目を休ませなければいけないことになっているのだが、それはあくまでも書類上の通達のみだった。
 「あぁ、うん、でも」
 自分のミスで時間がかかっているだけだ。それを和哉に頼もうとは思わなかった。
 「大丈夫だから」
 そう言ったのに。和哉は煌乃の手元の登録票を取り上げる。
 「これ、この前習ったヤツ、ですよね?」
 「いいってば」
 「ちょっと替わりますよ」
 そう言って和哉は煌乃を押しのけるようなそぶりをした。
 
 「藤森さん、眉間にしわ寄ってますよ」
 「え?」
 「ほら」
 ぐい、と和哉の指が煌乃の眉間を押さえた。
 「ちょっと、やだ、何すんのよ」
 そのまま、勢いに押されて煌乃はモニターの前を明け渡してしまう。
 不意に伸ばされた指先は暖かくて、煌乃は急に心拍数が上がるのを感じた。温もりを感じた瞬間、体に血が巡ってくるような錯覚を覚える。
 「ちょっと休憩しててください」
 和哉はそれ以上言うこともなく、モニターに向き直った。煌乃はあっさりと取り残された。
 
 「ええと……」
 「何ですか?」
 「ありがとう」
 「それでいいんです」
 和哉の言葉には抵抗を覚えないわけではない。まだ入って一月少しの相手に、気を使わせたという意味での抵抗もあるし、自分の仕事ぶりを見られていてフォローに入られたという意味での抵抗もある。
 しかし、それらは考えてみれば煌乃の八つ当たりのようなものであって、この場での言葉は「ありがとう」しか思い浮かばなかった。
 
 それ以上そこにいても仕方のない気がして、煌乃は自分の机に戻った。引き出しを開け、常備しているチョコレートを出す。
 パリパリという包装紙の音と、和哉のキーボードを叩く音。
 行楽のシーズンと言われていたものが気づくと紅葉すら終えて、今はすでに朝の寒さに凍える季節となっていた。また今年もこんな風に終わるのかなあと、煌乃は和哉の後姿を見ながらぼんやりと考えた。



 その日の業務は、結局煌乃のてこずった仕事をそのまま和哉が引き継ぎ、煌乃が十五分後に声をかけたときには、ほとんど終わりかけていた。
 和哉は和哉で、そのまま自分自身の仕事に移り、その日の休憩のコーヒーは久しぶりに煌乃が淹れた。
 和哉が休みの日は、煌乃が自分やチーフのコーヒーを淹れているので、サーバー自体は普段と変わらないはずなのに、和哉に淹れる、という行為はなんとも違和感があり、落ち着かないままに和哉の横のサイドテーブルにコーヒーを置く。
 「あ、すみません」
 「いいよ、さっきの、結局全部やってもらっちゃったし」
 
 煌乃のその言葉を聞いて、和哉はわずかに苦笑いをした。
 「俺が取っちゃいました?」
 煌乃にそういう意図はないと分かっていながらも、ついつい、そんな聞き方をしてしまう。
 「え、そうじゃないよ」
 うろたえる煌乃を見て、なんとなく楽しい気分になるようになったのはいつからだろうと、ふとそんなことを思った。

 和哉にしてみれば、我ながら性格が悪いとは思う。だが「教えてもらう立場」としては一段落した今の二人の関係は当初の「姉と弟」のような雰囲気は残しつつ、それなりには「仕事のパートナー」としてやっていけるようになっていて、それは時には和哉の方が心持ち上の――それは先程のような――立場になるということも意味している。そんなときの煌乃のいくらかバツの悪いような、複雑な表情を見せられると、自分も少しはましになってきたのかな、と思うと同時に、もっと煌乃にそういう顔をさせてみたいと思ってしまう自分がいるのだった。
 
 それに和哉から見ると、煌乃はやはり不用意に無防備だった。
 和哉に向けてだけなのか、あるいは本質的にそういう部分があるのか、それは和哉には分からない。けれども、その日も煌乃が一時間早く終わって、着替えを終わって降りてきたとき、それは起こった。
 いや、煌乃が変な格好をしていたとか、そう言うわけではない。普通に立っていれば普通の格好だと思えた。ただ、それは幾分寒そうではあったのだが。
 ただ、和哉に衝撃を与えたのは、煌乃が忘れ物のかさを取りに戻ってきて、荷受室の自分の机に座り、引き出しの中のかさを取ろうと頭を下げたときだった。胸の谷間、どころか下着まで、くっきりと和哉の目に飛び込んできて、心臓が止まりそうになる。
 もちろん、生まれて初めて女性の下着姿を見たわけでもなし、巷にあふれているグラビアの類の方がよっぽど扇情的なのは間違いなかったが、それでも普段一緒に働いている煌乃のその姿は、和哉を動揺させるには十分だった。
 
 「っくあ……藤森、さん?」」
 あやうく声をあげかけて、それをすんでの所で飲み込んだため、変な声が出た。それでも、煌乃を呼ぶと、煌乃は顔を上げてきょとんとしている。
 自分が今、どういう状態なのか、まったく気づいていない風で、和哉はどうしたものかと束の間悩んだ。
 「なに? 変な声しなかった? 今」
 ――それは俺です、でもそうではなくて――
 和哉は言葉を選ぶ。
 見えてます、と言いかけて、それも煌乃からしてみればイヤかもしれないと思い直し、結局言葉にならない。
 和哉は立ち上がった。つかつかと煌乃のすぐそばまで近寄った。
 
 「え? 何?」
 煌乃がびっくりしたように和哉を見上げる。体を起こせば、当然、普通の格好になるのだが、それでもやや胸元が開き気味の服ではある。わずかな苛立ちと、いくばくかのためらいと共に、和哉は煌乃の首元に手を伸ばした。
 「わっ」
 一瞬驚いたように煌乃が声をあげる。和哉は煌乃のコートの襟元の第一ボタンを留めた。少しハイネック気味のデザインは、ボタン一つでも煌乃の胸元を隠すには十分だった。
 
 「もう、何よ〜」
 「寒々しいんですよ。冷えますよ?」
 「そんなことは、ないわよ」
 「見てるこっちが寒いです」
 煌乃は不服そうに和哉を見上げたが、それを外そうとはしなかった。
 「だからって、勝手に留めること、ないじゃない」
 ぶつくさと煌乃は言うが、和哉はそれは気にしないことにした。
 
 「雨、そんなに降ってますか?」
 話を変える。
 「うん、結構降ってるよ」
 ドアを開けながら煌乃が言った。
 「うわ、ホントだ」
 開いたドアの向こうに、先程までとはうって変わった土砂降りの雨。音がしていたはずなのだが、荷受室の中は古いエアコンの音と、すぐ裏手にある機械室の音が大きいので、ドアを閉めていると意外に外の音は聞こえない。
 「もう一時間、頑張ってね」
 「あー、はい」
 ドアを押さえる和哉の目の前を、煌乃の髪の毛が通っていく。
 わずかにシャンプーの香りがした。普段は意識することのない、煌乃の香り。先程の動揺が戻ってきたかのように、動悸がぶり返して、和哉はわずかに頬が熱くなるのを感じた。
 
 「じゃ、お先〜」
 ひらりと手を振って、煌乃が通用口へと向かう。
 和哉はその後姿を、わずかに目を細めて見送った。



 数日後のことだった。煌乃は普段どおりに出勤してきた。シフトはチーフと二人の予定で、すでに出勤してきている。だが、そのチーフが煌乃の顔を見るなり
 「すまん!」
 と言った。
 「え? どうしたんですか?」
 「……今朝方、ちょっと不幸があって……」
 「あら、大変ですね。ご愁傷さまです」
 「ちょっと今日は早退させてもらえるか」
 「もちろんいいですけど」
 「で、明日、明後日休まないといけないと思うんだが」
 「あぁ、はい」
 
 のんびりとした口調で煌乃が答えた。この時期、たしかに物流の仕事は少なくないが、和哉が来るまでは時々一人でやっていた仕事だ。煌乃にはさほど問題があるとは思えなかった。
 しかしチーフの顔は曇ったままだった。
 「え? 何か、ありましたっけ?」
 「明日、本社会議」
 「ええぇ!?」
 「それも、歳暮がらみがあるから、欠席は……しない方がいいと思うんだ。で、藤森、申し訳ないけど、本社には連絡しておくから、替わりに出てくれないか?」
 「……」
 
 煌乃には本社の会議に出た経験はない。黙ってしまった煌乃の様子にチーフはいささかあせったように
 「話聞いて、資料貰って、帰ってくればいいから!」
 と言った。
 「頼むな」
 「……分かりました」
 一人で留守を守れと言われるのは何の抵抗もないが、本社会議に出席することがあるなど、予想もしていなかった。とは言え、それは断る理由にならないのは分かっていた。。
 「頼むな」
 チーフが重ねて言った。あまり心配をかけてもいけないだろう、と煌乃は作り笑いを浮かべ「はい」と答えた。
 
 そのまま、シフトの調整に入る。結局、翌々日はチーフと和哉が出勤予定だったのだが、入荷が重なる日でもあり、煌乃が休日を振り替えて出勤することになった。
 翌日、来たら一人だった、というのは和哉も不安だろうと、煌乃は和哉に電話をした。
 
 「え?」
 案の定、和哉は電話口で、驚いた声をあげた。
 「あー、一人、ですか」
 「まぁ、店は特に変わったことないし、河崎さんと与倉さんは出勤だし」
 「そうですね」
 「何かあったら、電話してもらったらいいし、一応やることのメモは置いておくから……」
 「ちょっと、今から行きます」
 「え? えぇ?」
 「自信がないわけじゃないけど、やっぱり少し不安なんで」
 「休みなのに、いいの?」
 「家でゴロゴロしてただけですから」
 和哉の口調にわずかに笑いが混じる。
 確かに突然のことなので、電話と伝言で引継ぎをするよりは、来てもらえたほうが有難いと思った。
 
 それから20分ほどで、和哉が顔を見せた。
 「あれ? チーフはもう帰られたんですか?」
 「そう、今日からもう、行かないといけないんだって」
 不幸のあったという親戚の家までは、野分からは片道半日ほどかかると言う。
 「チーフも、大変ですよねぇ」
 「そうねぇ」
 二人顔を見合わせた。
 「ま、そういうことだから、仕方ないよね」
 「ですね」
 自分の会議のことはともかく、和哉に任せて出かけるからには、せめて店内のことだけはきちんとして、明日は出かけなければ、と煌乃はそんなことを思った。
 
 本社会議と言っても、リバティマートの本社は、野分店のすぐ隣りのビルにある。
 もし何かあったら、すぐに飛んで帰れる距離でもある。何か起こってほしいわけではないが、何か起これば帰れると思うと、少し起こって欲しいような気持ちにもなる。
 経験したことがないのだから、何がイヤだ、というわけではないのだが、その分不安は募るばかりだった。



 翌日、煌乃は緊張しながら本社へと向かった。
 距離にしてほんの数十メートルのこの間隔が、実際にはとても長く感じられる。とは言え、煌乃がピンチヒッターであることは誰もが知っており、とくにトラブルもなく、煌乃はただ座って説明を聞いているだけ、という状態で午前中の会議を終えた。
 
 昼休憩時に一旦店に戻ろうかと思ったものの、和哉に電話をしてみると、その必要はない、と断られる。隣とは言え、帰ってきたら休憩時間が減ってしまうことは分かっており、それを気遣ってくれているのだとは理解できたが、一抹の寂しさを感じたこともまた事実だった。
 午後の会議では、午前中とは多少雰囲気も変わり、活発な議論がいくらかはなされたのだが、煌乃は相変わらずただ座っているような状態だった。
 他のメンバー(それは他店のチーフであったり、本社の物流のスタッフであったり)はそれぞれ自店の問題点などを持ち寄っており、それらについての本社側からの説明やアドバイスなどがある。そんな席にいると、煌乃は自分が普段どれほどのほほんと過ごしているか、ということを痛切に感じるのだった。
 
 結局ほとんど発言もしなかったにもかかわらず、会議が終わったとき、煌乃はくたびれ果てていた。なれない仕事というものは、こんなにもストレスが溜まるものなのだと、改めて思う。
 お店に帰ると、ちょうど時間は午後の休憩の時間になろうとしていた。
 
 「あ、藤森さん、どうでした? 会議」
 和哉がそう言って、煌乃に問う。
 「疲れた」
 ただ一言言って、椅子に腰掛けた煌乃に、和哉は少し苦笑した。
 「ま、コーヒーでもどうぞ」
 コーヒーポットを掲げてみせる。煌乃は引き出しからマグカップを取り出した。
 
 「なんかさぁ、普段の私って、なぁんにも考えてないんだなぁ、とか痛感しちゃって」
 つい愚痴っぽくなってしまう。
 「そうですか?」
 「うん、そうねぇ」
 小さくため息をついた。もちろん、怠けているつもりなどはないのだが、それでも今日の会議の出席は、煌乃に色々なことを考えさせるには十分な機会だった。
 
 「そういえば、藤森さん、明日休みを振り替えたんですか?」
 話題を変えるように和哉が言った。
 「え? あぁ、明日は入荷も多いしね」
 「良かったんですか?」
 「え?」
 「予定とか、あったんじゃぁ……?」
 「あー、ないから、大丈夫」
 「そうですか?」
 「うん、とりあえず」
 「でも……」
 「何?」
 「彼氏とか……」
 
 煌乃はクスッと笑った。
 「いないから、大丈夫」
 「そうですか」
 まだ何か言いたそうな和哉の顔を眺める。
 「何?」
 「いや、ちょっと聞いたんですけど、社内恋愛多いって本当ですか?」
 今度こそ、煌乃は声を立てて笑った。一体どこからそんなことを聞いて来るのだろうと思う。
 「ま、なくはないんじゃない?」
 
 とっさに思い浮かんだから、煌乃に聞いては見たものの、なんとなく話がそういう風に流れてしまい、気まずい感じの雰囲気になったのを和哉は感じた。
 「スミマセン」
 変なこと言って、と心の中で謝る。
 「いや、いいけど?」
 そう言いつつも、煌乃は少し楽しそうに和哉の顔を眺めていた。
 
 とりあえず、煌乃にはそういう相手はいないのか、と和哉は思う。とは言え、彼自身、自分の気持ちを掴めないでいた。
 もっと色々知りたいと思う。それは単なる好奇心なのだろうか。あるいは……煌乃のことを全部知りたいと思う独占欲なのか。
 「何?」
 黙って考え込んでしまった和哉の様子に、煌乃の視線が、ちょっと問いただすような光を帯びた。
 「いえ、なんでもないです」
 和哉はゆっくりと視線を外した。

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