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3. 無敵のアドニス

 1.

 司が、高校のある町を離れて、車で一時間程の所へと引っ越したのは、四月に入って間もない金曜日のことだった。さすがに、手伝うわけにもいかなくて、当日はただぼんやりと日常を過ごした。
 翌、土曜日。遊びに来いと言う司の言葉に、司の部屋を訪れた。
 卒業式以来の……デートと言ってもいいんだろうか、久しぶりの再会だ。毎日の生活の中に司とのメールや電話は入り込んでいて、姿を見ていなくても、大分距離が縮まった気がしている。
 が、それでもやはり、本当に私たちは、その……そういう関係なんだろうかという疑問を抱いてしまうことは、相変わらずあるわけで、そんな中で司の部屋を訪ねるということは、私にとって、緊張を強いられる行為であることには変わりなかった。
 

 走ること、車で一時間。何度かは訪れたことがあるものの、それは主に学会などへの参加程度のことで、大学の施設自体は記憶にあるものの、町の中になど、まったく興味も湧かなかった自分をいくらか悔やみつつ、車を走らせた。
 カーナビに導かれること数分、大学からさほど遠くないところに司の部屋はあった。駐車場は付いているということなので、部屋番号のところへと駐車し、司の部屋へと向かった。
 緊張で胸がバクバクとしている。やがて胃がきゅっーっとなって来た辺りで、司の部屋の前へと着いた。
 作り付けの安っぽいドアフォンを鳴らす。
 中で音がしたかと思ったら、司が顔を出した。
 
 「来たぞ」
 一瞬驚いたような顔をする。来いと言ったのは司の方なのに、と怪訝に思った瞬間、司は慌てたように
 「どうぞ」
 と私を中へと迎え入れた。
 
 「なんだ? さっきのは」
 部屋に通されつつ、尋ねる。部屋の中にはまだ段ボール箱がいくらか積み上げられており、それでも主要な家具やインテリアの類はほぼ定位置に収まっているようだ。
 「え?」
 「変な顔をしただろう?」
 「あ、あぁ、いや、そうじゃなくて」
 微妙に照れたように口ごもった。
 「センセーのそういう格好って初めて見たなぁって思って」
 「え?」
 思わず自分の姿を見下ろした。
 そう言えばこういうカジュアルな格好で司と会うのは初めてかも知れない。それに……やっぱり司と会うのだと思うと、幾分かは普段の自分よりも若めの格好だし。フェミニンなブラウスにGパン、ミュール。にわかに力を入れすぎてしまった気になって、少しあせった。
 
 でも、そんなことを言われると、確かに私服を見ることもあまりなかったなぁと改めて司を眺める。
 その視線が分かるのか、少し困ったように照れ笑いをするところが、なんとなく私をそそった。
 「何回か、は私服で会ってるよな?」
 「えっと多分一年の時」
 化学部は基本的には校外での活動はなかった。それでも上級生たちがいた頃に、確か一度か二度、発表会に連れて行ったことがあると思う。
 「でもその時、多分センセー、スーツか何か、そういう服だった」
 「そうか」
 生徒たちは比較的カジュアルな格好をしていたが、そう言えばそうだったかも知れない。
 「それに、髪、下ろしてるし」
 「あぁ、そうだな」
 これは確かに初めてかも知れない、と自分の肩先を見る。肩を少し超えたぐらいのセミロング。普段はいわゆるひっつめ髪だ。
 
 すっと手が伸びてくる。思わず半歩ほど後ずさりそうになって、ふんばった。そんな私を見ながら、少し苦笑して司が言った。
 「ちょうど良かった」
 「何が」
 「今日結んできてたら、ほどいてやろうと思ってた」
 まるで悪ガキがいたずらの告白をするみたいな顔で言う。髪の毛の先を、司の指が掴む。なんとなく動くことも出来なくて、司のするままに任せた。
 
 「で、今日はどうするんだ?」
 何も言わず私を見下ろす司の視線に、やがていたたまれずに尋ねたのは私の方だった。
 「え?」
 「今日。引越しの手伝い? 後片付け? 何かある?」
 矢継ぎ早に尋ねる。そう、必要以上に今日緊張してしまったのは、もちろん久しぶりに会う司への緊張や、いまだにそういう関係に慣れないこともあるのだけれど、それに加えて「お家デート」って何するんだっけ、と昨晩考えたら、どんどん分からなくなってしまって、それに緊張していたというのもあるのだ。
 学生時代には、付き合っていた男性の家でのんびりと過ごしたことはあるが、教師になってからはデートといえば、どこかに行ったり、食事をしたり、とそういう感じだった。
 で、ふと学生時代にじゃあ一体何をしてたっけ、と思い起こせば、これがまた、愕然とするくらい何も思い出せない。
 多分、二人でいることが楽しくて楽しくてしょうがなかったのだと思う。だがそれを司に求めるのはいかがなものか。
 
 しかし司は私の顔を見て、一言「え、」と呟いて固まってしまった。
 「ん? 何も考えてなかったのか?」
 「えっと、まぁ」
 私の口調に、いくらかの非難がましい雰囲気を感じたのか、決まり悪そうに私の顔を眺める。そういう顔をされると、こっちとしても逆に申し訳ないというか、まるで私が悪いことをしたかのような気分になってしまうのだけれど、一方で普段やられっぱなしの仕返しをしてみたいという欲求にも駆られてしまうのだから、大概私の性格も悪い。
 「することないなら、帰るか」
 一瞬の逡巡のうちに選んだ選択肢は後者だった。
 「えっ、いや、ちょっと……!」
 司の手が私の二の腕を掴む。よける隙もないくらいの早業だった。
 「それはないでしょう!?」
 半分裏返ったような声。愕然とした表情。その顔はあまりにも情けなくて、思わず笑ってしまう。
 「だってやること、ないんだろう?」
 「あるっ、ありますっ、……えっと、あー、そうだ、料理、料理教えてセンセー」
 「料理?」
 その必死さに、少しは許してやろうかと思うものの、こんな司を見るのもまた楽しくて、ついつい意地悪をしてしまう。
 「私は家庭科教師じゃないぞ?」
 「知ってますよっ!」
 そりゃそうだ、と心の中で呟いた。そろそろ許してやることにするか。
 
 「教えるほどの腕前じゃないけど」
 思わず爆笑しながらそう言うと、司はそこで、やっと自分がからかわれていたことに気づいたようだった。
 「ひどすぎる」
 少し口を尖らせて、羞恥に頬を染めている。
 「いやなに、面白くってな……まぁ、日ごろの仕返しだ」
 「仕返しされるほど、何かした記憶はないんですけど」
 「えてして人間は、他人に対して悪いことをしたときほど、そのことを覚えてないもんだ」
 「俺、センセーの好意をもてあそんだことなんか、ないもん」
 「自分でそう思ってるだけだ」
 寝たふりしてただろうが。ひそかに毒づく。まぁ、今さらだけど。
 この話はとりあえずここまで、という意味もこめて、司の頭に手を伸ばす。くしゃっと撫でると、司はわずかに首をすくめて、苦笑いをした。
 
 台所の部分は、大半が新品の調理器具で埋まっており、一人暮らしをするに当って新調したのだと分かる。
 「じゃ、とりあえず、買い物に行かなきゃな」
 器具はあっても、材料はもとより、調味料の類も何もない。
 そんな状況を見て取って、私はそう口にした、のだが。……買い物? 司と一緒に? この近くへ?
 「スーパーとかですか。どこにあったかなぁ」
 私の思考が止まってしまっていることにはまったく気付かない風に、司がのんびりと言った。
 
 「一緒に、行くのか?」
 思わず尋ねた。
 「え、行かないんですか?」
 「だって……」
 誰かに会ったらどうする。少し距離があるとは言え、ここは地元だ。司の同級生だって何人も(それは三桁近くだ)ここに進学しているのだし、学年が変わればその分人数だってさらに増える。
 私の顔を知っているものが、何人いるとも言えないのだ。そんなところに、司と二人で、買い物……?
 「あぁ、……大丈夫だと思うけど」
 私が何を不安に思っているのか、やっと気づいたように司が言った。
 「大丈夫って言ったって」
 「大丈夫ですって」
 「その根拠はなんだ」
 「だってセンセー、別人だもん」
 ……。
 
 「普段のセンセーしか知らない人だったら、絶対分からないと思う。俺だってびっくりしたくらいなのに。授業受けたことがある程度の人だったら、似てるなーくらいは思うかも知れないけど、それで終わりじゃないかな」
 「そうか?」
 「うん、そうだと思うけど……あ」
 ふと、司が思いついたように視線をさまよわせた。
 「それでも心配だったら、メガネかける?」
 「メガネ?」
 ごそごそとクローゼットの中の、さらに奥、小物入れのような金属の箱を漁っている。取り出したのは赤茶色のセルフレームのメガネだった。
 「度は入っていないんで……」
 手渡される。
 「司の、か?」
 「ま、たまには」
 思わずそれと、司の顔をと並べて眺めてしまった。いいかもしれない。
 「俺じゃなくて……」
 司がおかしそうに言う。
 「あ、うん」
 とりあえず、かけてみた。っていうよりも、そうか。
 「メガネで来ればよかったんだ」
 「え?」
 「コンタクト」
 自分の目を指差して言った。今度は司が驚く番だった。
 「知らなかった」
 思わず顔を見合わせて笑った。
 
 「私は別人みたいか?」
 「そうですね」
 「じゃ、これは司だ。二人そろって普段と違えば、その方が気づかれにくいだろう?」
 私は自分でメガネを外して、司へと掛けてやる。司の顔は急に少し大人びて、普段よりもちょっとだけ冷たい印象になった。
 「お坊ちゃまっぽくなるな」
 私がそう言うと、司は少し肩をすくめて笑った。
 「それ、誉めてんの?」
 「微妙」
 「えー」
 「でも、それも悪くない」
 私の言葉を聞いて、司が何かを一瞬ぼやいた。だがそれは取り合わなかった。司は幾分か不服そうな顔をして、こちらを見ていた。
 

 午前中はそれでも残ったダンボールを片付けつつ、必要だと思えるものをピックアップしていったら、あっというまに過ぎてしまう。
 結局昼食を取りがてら、少し離れた大型店まで私の車で行くことになった。
 司の部屋の近くには、さほどは大きくないが、スーパーはある。普段の買物はそこで十分かもしれないけれど、今日はまだ、雑貨の類なども買い足したほうがいいだろうし、昼食を作るにも、まず買物をしなければいけない状況なので、そっちが先だと判断した。
 
 私の車に、司を乗せる。それは想像したこともなくて、司が隣に座った瞬間、やはり緊張が走った。なのに、司はまったく意に介していないようだ。
 「なんか俺って、若いツバメみたい?」
 「下ろすぞ」
 どこまで冗談だか分からないことを言う。
 「それからな、人前ではセンセーと呼ぶな」
 「え、あ、そうか」
 本音を言えば、司にセンセーセンセーと呼ばれるのは嫌いではない。というよりもむしろ、その度にどこかくすぐったくて、幸せな気分になるというのが本当のところだ。とは言え、人前で「センセー」と呼ばれれば、誰がどう見ても「先生と教え子」にしか見えないわけで。
 いやそりゃまぁ、センセーと呼ばれる職業は教師以外にも沢山あるが……私の容貌で「先生」とくれば、普通に家庭教師も含めての「教師」だろう。
 
 「え、でもじゃぁ、どうやって呼ぼう」
 「好きにしろ」
 私の言葉に司は困りきった顔をしている。眉尻がさがっているぞ。
 「……海恵?」
 「呼べるもんならな」
 その名前を口にした瞬間、あからさまに司の頬がボッと紅潮したのが分かった。思わず口元が緩みそうになったのをこらえて返事をしたのが分かったのだろうか、司は怒ったように
 「……呼べねーよっ!」
 と小さく叫んだ。
 
 やがてショッピングセンターへと到着する。時間はすでに一時を少し回っていて、お腹はぺこぺこだった。最初は全国チェーンのイタリアンのファミリーレストランに入ろうかと思ったのだが、パスタと言えば簡単一人暮らしメニューの代表だ。最初に教えるのはそれにしよう、ということで逆にこの先あまり行く機会はないかも知れないと思い、回転寿司店へと入った。
 大学の近くにもなかったはずだし、いくら回転寿司とは言え、普通に大学生が食事をしに入るというのはあまり想像がつかない。スーパーの惣菜売り場には寿司は並んでいるだろうが、自分の学生時代を思い起こせば、それは家計にとってはあまりバカにならない値段だったはずだ。
 もっとも、司がどの位の生活をするつもりなのかは、分からないのだが。少なくとも、彼の部屋を見た限りでは、さほど裕福な生活をすることはないだろうと思われた。
 
 食事の後、いよいよ買物へと回る。最低限の調味料と、ラップ類やペーパー類をまずはカゴに放り込み、その後生鮮食品へと回った。
 料理を教えろと言われても、そんなに特殊なものが作れるわけでもない。
 カレーライスぐらいなら作れますと司は言ったが、カレーライスが作れるのなら、大抵のものはそれなりに作れるんじゃなかろうか。
 
 「ま、あとは野菜を食べる習慣はつけておいた方がいいからな、サラダと」
 「サラダって切ればいいんですよね」
 「まぁな」
 「ドレッシング? マヨネーズ?」
 「好きにしろ」
 ドレッシングコーナーの前で立ち止まった司を置き去りにして、一列隣のレトルトのコーナーへと向かう。
 とりあえずいくらかの備蓄はさせといてやろう。
 そんなことを考えつつ、一つ二つ、商品を手に取っていると、ドレッシングを二つ持った司がやってきた。
 「セン……」
 思わずギロリと睨む。
 「じゃなくて……姐さん」
 「は?」
 「どっちがいい?」
 ちょっと待て、今なんて言った!?
 私の顔を見て、いかにも得意満面の顔をして
 「好きにしろって言ったでしょ」
 と司がほざいた。私は思わずごくっと唾を飲み込んだ。
 
 何も言えずにいる私を、司はいかにも満足げに見下ろしている。司の手からドレッシングを取り上げた。それからおもむろにすっと寄って、二の腕の内側に腕を回すように手を差し入れて、思いっきりつねり上げた。
 「った、いたっ、た……」
 振りほどくように、司が離れる。
 「何でもいいって言ったじゃん」
 「程度ってものがあるだろう」
 「ふふーん、朝の仕返しだもんね。あーすっきりした」
 ……。
 仕返し、だと? 普段あれだけ好きなように私を翻弄しているくせに、あんなささやかな意地悪に、仕返し、だと?
 思わずふるふると震えてしまう。が、司はやはり司で。
 「ほらほら、そんな怖い顔しない」
 そう言いつつ、ふと近くに寄ったかと思うと、そのままごく自然に指を絡められた。
 「早く帰りましょう? やっぱり慣れない呼び方はしたくない」
 耳元で、囁かれる。その吐息と繋がれた指の温かさに、私は結局何も言えないまま、手を引かれて、再び買物へと向かったのだった。

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