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2. 眠り王子 がんばる

 2.

 和沙に吐き出したことで少し落ち着いた私は、多分その後も、普通に司と接することが出来ていたと思う。
 司は相変わらず、週に一度は化学室に来て、雑談と小論文のことで内容を話して(文章のことは分からないけれど、レポートだと思えば、それなりのアドバイスはしてやれた)、また次の週を迎える、その繰り返しだった。
 
 そして夏休み。この期間、私は心おだやかに過ごすことが出来た。司に会いたいと思わないわけではなかったけれど、会ったとして、心を乱されるくらいなら会わないほうがいいと、そんなことを実感した期間だった。
 あってはいけない感情をなかったことに出来ないのならば、あとは見ないようにするしかないのだと、そんなことを考えていた。
 それに、実際に会わないでいると、意外に考えなくても大丈夫なものなのだと、そんなことにも気付いた。学生時代なんていうのは、惚れた男が出来たなら、朝から晩までその人のことを考えていたような気がするけれど、今の私には、それよりも優先順位の高いものはいくらでもあるようで、ふとした拍子に思い出すことはあっても、気付けばそれ以外のことを考えたりしていて、それは私を安心させた。
 多分、司が卒業してしまえば、忘れられる。そう思えた。
 

 そして新学期。私の心は大分落ち着いていたはずだった。
 9月の第一週の水曜日。司は来ているだろうかと思う。学校内で数度はすれ違っていたけれど、距離もあったので、軽く目を合わせた程度だった。
 少し痩せた姿。おそらくはそれなりに勉強に励み、受験生としての夏を過ごしたのだろう。
 
 ごろごろとドアを開ける。夏休み前と変わらない姿で、そこに寝ている司の姿があった。
 小さくため息をついて、起こさないように近くへと寄った。
 
 司を見下ろす。目元の泣きぼくろが懐かしい。あと何回、こうやってこの寝顔を眺められるのだろうと思った。平気になったはずなのに、いざ目の前にすると、その心が揺らいだ。
 それでも、数分。意を決して、司に手を伸ばした。
 その瞬間、くん、と強い力で腕を取られた。
 「えっ?」
 手元を見ると、司の手が、私の白衣のすそをつかんでいた。さっきまで寝ていたはずの司は同じ姿勢のまま目を開け、いたずらっぽいまなざしで私を見上げていた。
 
 「何、してるんだ」
 声が震えた。いつから起きていたというのだろう。私が見つめていた数分間を気付かれていたというのだろうか。
 「こら、離せ」
 司の手を振りほどくように、すそを引っ張った。諦めたように手を離し、司は体を起こした。
 
 「センセー、遅かったね」
 「職員会議があったからな」
 私の動揺には気付かないのか、司は飄々としたものだった。それでも、私の動揺は収まらない。
 「お前、もう二学期なんだから、ここには来るな」
 「え?」
 「私が教えることなんて、もうほとんどないだろう? ここには来るなと言ってるんだ」
 さっきまで、あとどのくらいと思っていたというのに、言葉は心を裏切っていく。それは私の動揺の表れなのか、あるいは逆上なのか。
 言うほどに心と言葉の乖離が進み、次から次へと口からこぼれる言葉は司を突き放すような言葉ばかりだった。
 
 「ここへ来るのが、いい気分転換になってるんですけど」
 「今となっては、そんなことを言っている場合でもないだろう? 推薦を受けるのなら、より日程はタイトになっているのだし、それに受かれば、実際の正味はもう三ヶ月ほどのものなんだ。その位、受験勉強一色に打ち込め」
 私の言葉を聞いた司は、少し悲しそうな顔をしているように思えた。
 けれど私は、そんな司をフォローできるほどの余裕はなかったのだ。
 あれこれと言い募る私に、司はぽつりと言った。
 少しすねたような、あるいはふてくされたような声と顔だった。
 「じゃ、受かったら来てもいいんですね?」
 「そうとは言ってない」
 「受かってもダメなんですか?」
 「そうとも言ってない」
 私の言葉に、司が少し笑った。
 「受かったら、お祝い下さいよ。そのくらいは、いいでしょう?」
 
 「お祝い? そりゃその位は考えるが……」
 「約束ですよ」
 「ちょっと待った、何の話だ」
 さっきまで、ここに来るなとか、そういう話をしていたはずだ。
 「……センセーは、ここに来るなって言う。俺としては、まぁ大学にはもちろん受かりたいんだけど、ほら、馬にはニンジンがあった方が、よく走るでしょう? そういう話ですよ」
 「何が欲しいんだ?」
 一瞬高価な金品を要求されるのかと思った。しかし、司の性格的にはそんなことは言いそうにもない。いつだって、欲しいものなんてそんなになさそうなタイプに見えた。お祝いをくれ、という要求ですら、司らしくないと思う。
 「あー、今ふと思いついたんで、考えてないです」
 ――ガクッ。
 
 「それに、まぁ、推薦だったら受かってから考えても三学期は丸々あるわけだから、卒業までには間に合うし」
 「そんなことまで、冷静に考えるな」
 少し憮然とした私に、司はぷっと吹き出した。
 「そうですね。まぁ受かってから考えます」
 口ではそういうものの、おそらく少なくない自信はあるはずだ。それでも、私はさっき司の寝顔を眺めていたことがばれていたらしい動揺から逃げ出せるのなら、それ以上は突っ込みを入れる気にはならなかった。
 「わかった。だから、もう受験に専念しろよ」
 「ハーイ」
 やけに軽く答える。そしてそれを最後に、約束どおり、司は水曜日に化学室に来ることはなくなった。

 司が水曜日に来ることがなくなる、ということは、すなわち唯一の接点が切れてしまったということだった。授業も受け持っていない。放課後に会うこともない。
 それは諦めにも似た寂しさと、自分自身のカッとしたら思いつくままにその場逃れを言ってしまった後悔と、そして最後のつながりでもあった司の小論文の指導を放り出してしまった形になった自分への嫌悪をかみ締める毎日でもあった。
 
 司の受験の日程は聞いていた。本人からも聞いていたし、件のもう一人の化学教師からも伝えられていた。けれど、私に出来ることと言えば、ただその合格を祈るだけだった。
 自分から手を離しておいて、今さら司には何を言いようもなかった。
 ただ、祈ってその日を迎えた。
 

 司が次に私の前に姿を現したのは、十二月に入ってからのことだった。
 「センセー、合格したよ」
 うれしいニュースのはずだった。いや、心の中では、良かったなぁ! と、バシバシ肩を叩いてやりたいほどに喜んでいたのである。だが、口から出たのは
 「良かったじゃないか」
 という、極めてそっけない一言だった。
 「それだけ?」
 司は少し口をとがらせて、そう言った。
 「なんだ、他に何かあるのか?」
 そう言った私に、司は少しだけ目を細めて、ふっと笑った。

 「お祝い、くださいよ」
 「あぁ、そういえば何だかそんなことを言っていたな」
 もちろん、忘れてはいなかった。ただ、それを約束した時のことを思い出すと、あまりよろしくない色々な感情まで思い出してしまいそうで、あえてあまり考えないようにしていたのだ。
 
 「で? 何が欲しいんだ? 考えてきたのか?」
 私は司に尋ねた。話題が出たからには、きちんと聞いてやるのが筋というものだろう。
 「センセー、クスリ作れる?」
 「クスリ?」
 思わず尋ね返した。
 「何の?」
 「えっと、なんて言うか……女をメロメロにさせるクスリ?」
 「媚薬とか、そういうもんのことか?」
 「あぁ、そういう感じになるのかな。一発でメロメロになるような、強烈な奴、作ってくださいよ」

 私は思わず眉をしかめた。
 「そんなもん、何に使うんだ」
 「使うことなんて、決まってるじゃないですか。好きな女に使わないでどうするっていうんですか?」
 司の答えに、思わずそりゃそうだ、とあいづちを打った。
 とは言え、司にそういう相手がいるとは知らなかったし、その相手に使うと分かれば心中が穏やかなはずもない。
 ただ、それはあまり考えたくもなかったし、認めたくないという気持ちが手伝って、思わずそう聞き返してしまっただけなのだ。

 私の心の中を、ためらいと戸惑いがぐるぐると回る。
 「薬事法って知ってるか?」
 「そりゃ……でもあれは、業務として薬を作ったり売ったりする時の法律ですよね? センセーまさかお祝いに金取るつもり?」
 一瞬痛い所を突かれる。
 「いや、そういうわけじゃないんだが」
 作りたくない、とはさすがに言えなかった。
 「あ、もしかして、出来ない?」
 「そんなはずは、ないだろう!」
 思わず反射的に否定してしまった。
 ……やられた。

 仕方ない。
 だが、さすがに内服系のブツを作る気にはならなくて――もちろん、効果てきめんの薬を作る気はそもそもないが、口に入れるとなると衛生面でリスクが高い――となると、外用だな。
 「タイプはなんでもいいのか?」
 「あー、おまかせしますよ」
 自分から頼んだ割にはそっけなく、司が言った。
 ま、外用って事になれば、市販のローションにエッセンシャルオイルでもぶちこんで、遮光瓶にでも詰め替えれば、それっぽくは見えるだろう。

 「ただし!」
 「はい?」
 「一応教師としては、そういうことを見逃すとか、手助けするっていうわけにはいかないからな。渡すのは、卒業してからだ」
 言いながら、我ながらがっかりでもあり、よく言ったという思いもあり。
 まさか司に対してこんな形でそんなことの手伝いをすることになるとは思ってもいなかった、という思いと、在学中にされてたまるか(いや、まぁすでに手遅れかもしれないが、それでも手助けなんぞ、する気はない)という思い、それから、卒業後に、せめて一度は会いに来て欲しいという気持ち。
 「あはは、それもそうですね。じゃ、卒業式の時にでも、また来ますよ」
 まるで私の気持ちなぞ想像してもいない風に司が笑った。
 
 だがしかし。いくら「お祝い」だとは言え、部活の顧問にそういうことを頼むというのはどうなのだろう。恥ずかしいとか、そういう風には……思われていないからこそ、頼めるのだろうけれど。
 それに第一、私だって女なのだ。そういう面でも、恥じらいとか、そんな感情を持ってくれてもいいではないか。

 「まさかお祝いにそんなことを頼まれるとは思わなかったなぁ」
 思わず司の顔を眺めつつ、呟いた。
 司は
 「そうですか?」
 とケロッとしている。
 「まぁ、年頃の男の子だもんなぁ」
 改めて、当たり前のことを思う。
 男子生徒はあまりそういう男女間のことを私の前で話すことはないけれど、授業を受け持っている女子生徒の中には、そういう話題をためらいもなく振ってくる子もいたりして、自分自身のことを振り返ってみても、高校時代というのはそういうものなのだなぁと改めて感じる。
 そう呟いた私の視線に、司は少し恥ずかしそうに首をすくめて見せた。
 

 とは言え、司にそういう相手がいたというのは、覚悟は決めていたけれど、ショックはショックだった。
 いつかこんな日が来るであろうことは、十分に理解できていたはずだった。その日の為に何度も頭で考えて、大丈夫と言い聞かせてきた。けれど、頭でいくら考えていても、やはりこういう気持ちというのは理屈ではないのだとそんなことを思う。
 聞きたくもなかったから、どんな相手かとも聞かなかった。だがそれがかえって私を余計に悶々とさせた。
 
 司に他の女が触れるところなど、想像したくもなかった。司が他の女を愛する所だって見たくもなければ聞きたくもない。だが、今日の司の依頼は私にそういうことを想像させるに十分だった。
 私自身があえて見ないように、考えないようにしていた、生身の男としての司。
 言葉では今日、卒業するまでとは言ったものの、そんな言葉に何の力もないことは、この五年の教師生活でイヤというほど知っていた。
 
 司もその女に愛を囁き、優しく愛撫するのだろうか。
 あの声で、あの手で、あの視線で。私の知らない司を、その姿を、その女は手にするというのだろうか。他の、私の知らないその女が、司のその姿を暴くというのだろうか。

 「あー、ちくしょう」
 思わず乱暴な言葉が出てしまう。その晩は久しぶりに司をオカズにして、眠った。

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