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1. 眠り王子がんばる

1.

 「あー、疲れた」
 春の日差しに、思わず声がこぼれた。臨時の職員会議。さほど重要だとも思えないのに臨時で集められ、予定が狂ってイライラしていたのに加えて、私の座った席は、すりガラス越しに日差しの注ぎ込む、こんな時でさえなければ、なんとも天国のような場所だった。
 とは言え、誘惑のままに寝てしまうわけにも行かず、後半、睡魔との闘いに主力を注ぎ込んでしまって、内容はほとんど覚えていないのが、悲しいかな、現実だ。
 
 渡り廊下を通り過ぎ、足は慣れた道を北へと向かう。途中、何気なく窓から下を見ると、受け持ちのクラスの女の子達がのんびりとおしゃべりをしているのが見えた。
 のどかなものだ、と思う。私が高校生のときは、もっと毎日にイライラしたり、ドキドキしたり、そりゃもう、エネルギーが有り余っていたような気がする。
 とは言え、のんびりとしているように見えるあの子たちも、私から見ればそう見えるだけで、実際にはあの頃の私のような、やり場のないエネルギーを抱えていたりするのだろうかと、少しだけそんなことを考えた。
 
 もし、――もし、そうなら、あの頃の私も、「大人たち」から見たら、今のあの子たちと同じように、のんびり、のどかに生きているように見えていたのだろうか。
 そしてあの頃の私から見た「さも物事を知った風な大人たち」も、今の私のように、ささやかに毎日を悩みつつ、イライラしつつ生きていたのだろうか。
 

 ごろごろと、重たいドアを引きずって、化学室の扉を開ける。
 校舎の中でももっとも北寄りの一階という、寒くて暗いこの教室にも、実は顔なじみの生徒は居たりする。今日も――いた。いる。
 
 橘川 司(きっかわ つかさ)、高校3年になったばかり。肩書き、化学部部長。ただ一人の化学部員で、この春、司がもう一月ほどで部活を引退したら、化学部は廃部になることが決まっている。
 昨年までは、司の一つ上に四人居て、ぎりぎりだった。本当は部活は二年の終わりに引退で、だから今の司を「部長」と呼ぶのはおかしいのだけれど、廃部にともなうあれやこれやで、立場上はまだ「部長」のままだ。
 
 で、なぜ彼がここにいるかと言えば……それは実のところ、私にもよく分かっていなかったりする。化学部の活動なんてものは、実質昨年の春から止まっており(部員が司一人ではどうしようもない)、司も受験勉強が忙しいはずなのだが、どういうわけか毎週水曜日だけは「活動日」と称して、この化学室へとやってくる。
 活動日と言ったところで何をするわけでもないけれど、とりあえず顧問としては放りっぱなしというわけにも行かなくて、授業の予備実験を手伝ってもらったり、世間話をしてみたり、あるいは司の志望する大学――地元の理学部だ――に関する話をしてみたり、と結局週に一度、ぐだぐだすごしているのが現状だった。
 
 そして最近、司はよく、ここで寝ている。
 水曜日に職員会議が入ることが多くなって、はや半年。居ないのは分かっているのだから、他の曜日に変えたら、と提案したこともあるのだが、予備校の授業の都合などで、水曜日がいいのだと彼は言った。
 
 薄汚れた白い化繊のカーテン越しに、陽射しが差し込んでいる。その中に司はいた。机に突っ伏して、顔をこちらに向けて寝入っている。その寝顔は、高校三年と言ってもまだまだ子供なんだな、とそんなことを感じさせる顔だ。
 
 色白の頬にはわずかに赤みが差していて、うっすらと汗もかいているように見える。それでもここでこうやって寝ているということは、それなりに心地良いのだろう。
 思わず手がその顔に伸びそうになって、あわてて引っ込める。無防備な司は、最近やけに挑発的に思えて仕方がない。
 それでも目の前のその寝顔を眺めていたくて、しばらくそこにたたずんだ。
 司の寝顔を眺めるこの時間が、最近私にとっての至福の時間になりつつあることは、残念ながら自覚していた。ただ、それは私の心の中だけの秘め事だった。
 
 それでも数分。思い切りをつけて、寝顔の司に別れを告げることを決める。
 「おい、橘川。起きろ」
 心の中の邪心を気取られぬように、最近はどうしても口調が荒くなってしまう。
 「んんー」
 ぱちっと目が開く。
 「んーじゃない。ここは昼寝するところじゃないと、何度言えば分かる」
 「あー、すみません。気持ちよくて」
 その気持ちは分かるけれど、こっちには教師と言う立場があるし、あまりにも無防備に寝られて、ヤバイことになったら、どうする。
 
 「今日は遅かったです?」
 「いや、あ、うん」
 思わず時計を見る。今の今まで、まったく時間なんか気にしていなくって、当たり前に司がいて、その寝顔に見とれていたなんてことは気取られてはいけない。
 「ちょっと、な。だから……水曜日はやめろと言っているのに」
 「だって、この日しか、無理ですもん」
 「聞きたいことがあるなら、休憩時間にでも聞きに来ればいいだろうに」
 「ゆっくり出来ないじゃないですか」
 「別にゆっくりする必要もなかろう」
 「ここでのんびりするのが、好きなんですよ」
 にっこりと笑って司が言い切った。そう言われると、ダメとも言えない。
 「センセーの邪魔をしてるわけでもないし、いいですよね?」
 結局いつものように丸め込まれて、その会話は終わった。
 
 その日は珍しく、司は山ほど問題集を持ってきていた。
 化学に関してはもちろん私の方が圧倒的な知識量を持っているけれど、それ以外の教科に関しては受験真っ只中の司の方が、受験→一般教養程度の私より、はるかにレベルは高いはずだ。
 けれど、司はいささか不安そうに、私の表情を窺っていた。
 
 「何か、あったのか?」
 「……推薦、行けそうなんですけど」
 「良かったじゃないか」
 心の中で、あぁ、と思う。部の顧問ではあるものの、司の授業を、私は受け持っていない。もう一人の化学の教師が、彼の受け持ちで、司の学年の学年主任でもある。
 彼は忙しいからほとんど化学室にはいない。が、もちろん世間話などをすることはあるわけで、少し前に司のことを少し聞かれたのだった。多分、それはこのことだったのだと、今になって分かる。
 
 「で?」
 「ショーロンブンがあるんです」
 「ショーロンブン?」
 頭の中に一瞬小龍包が浮かんで消えたのは内緒だ。
 「あ、あぁ、小論文ね」
 「なんか、突然降って湧いてきて、どうしたらいいですか、って言ったらとりあえず書いてみろって言われて……参考書なんかも見たんですけど」
 司にしては珍しく、弱気な様子が見て取れた。
 「で?」
 「センセーは、小論文は見れますか?」
 「……自信はないな」
 大学時代からこっち、レポートの類はそれなりに書いているが、たぶんそれらと大学入試の小論文とは別物だろうということは容易に想像が付いた。
 「そうですか」
 やっぱり、と肩を落とす司を見ると、こっちまで申し訳ない気分になる。
 
 「小論文と、面接らしいんで、それをきちっとやっておけば大丈夫だといわれたんですけど、絶対受かるってものでもないし、それまでは他の教科もやってかなきゃいけないし……内容は一応化学の内容らしいんですけど」
 「過去問は見たのか?」
 「これです」
 司はコピーを差し出した。
 「んー、この程度なら、橘川には問題ないだろう?」
 「俺が心配してんのは、レベルの問題じゃなくて文章のほうですよ……」
 「じゃ、私にはますます無理だ」
 「そんな……」
 「そういうときのために予備校があるんだろう」
 「夏期は受けますけど」
 「じゃ、大丈夫だろ」
 
 あっさりと言い放った私に、司は小さくため息をついた。
 「センセー冷たい」
 「私が受験するわけじゃないからな」
 やっぱり、と司が呟く。
 「センセーってそういう人だよね」
 これみよがしな言葉に、笑った。口ではそう言うけれど、司はそんなに怒ったりがっかりしている風でもなく、淡々としている。こういうときの司は何を考えているのか、いまいちよく分からなかったりする。
 

 自信がないと婉曲に断ったにもかかわらず、律儀にも司はその後、毎週水曜日には小論文の課題を一つ、仕上げて持ってくるようになった。
 「それってさー、大分なつかれてるってことだよね」
 目の前でアドニスを舐めながら、和沙が言った。嫌がらせか。
 「懐く、ってなんだ、懐くって」
 その言い方に笑う。まるで野生動物か何かのようだ。
 「え、でも海恵の話を聞いていると、そんな感じ」
 
 和沙は高校時代からの友人だ。腐れ縁と言うほどではないが、初めて会ったとき以来気が合って、その後社会人になってからは、一月か二月に一度、こうやって一緒に飲んでいる。
 「……まぁ、悪い気はしないけど」
 「悪い気、ってどころじゃ、ないんじゃないの?」
 「……」
 「何、その顔。だって、今までの海恵と顔つき違うよ?」
 「……」
 「もしかして、言ったらいけないことだった?」
 
 「教え子、だぞ?」
 「そうよねぇ」
 「他人事みたいに、言って。あんたは患者、の飼い主相手にそんな気を起こすのかっていう話」
 「患者だったら問題だけど、飼い主だったら、まぁありえなくはないかもしれないこともないかもねぇ」
 「……う、まぁ」
 「それに、患者じゃなくて、患畜」
 「あっそ」
 和沙は獣医だ。患者にその気になったらまずいかもしれないが、たしかに飼い主だったら、特に問題があるともいえない。
 
 「未成年だし」
 「じゃ、待てば」
 「年下だし」
 「そりゃそうだ」
 「それだけでも十分なのに、教え子となったら、もう、そんなこと、想像するだけでもまずいじゃんか」
 「想像、すんの?」
 「する」
 素直に認めた私が、和沙にはよほどウケたらしい。ケラケラと笑われた。
 「面白がるんじゃない」
 憮然とした表情を作っては見せるものの、迫力がないことくらい、自分でも分かっていた。
 
 「ここのところ、どんどん無防備になってる気がして、マジに笑い話じゃないんだって」
 「海恵がそんなこと言うの、初めてよねぇ」
 「お肌なんか、つるつるの、ぴかぴかだし……にきびがあってもきれいなんだぞ?」
 「まぁ若いからねぇ」
 「髪の毛だって、ワックスとかつけてるみたいなんだけど、なんかふわふわだし」
 「いまどきってそういうの、はやりだよね」
 「ヤバイって思うから、もう来るなって言ってるのに来るし」
 「ヤバイって何、手を出してしまいそうってこと?」
 「手を出してしまいそうっていうか、その……」
 うまく言葉に出来なかった。
 「手を出すとか出さないとか、そう言うことだけじゃなくて、何をしてしまうか、分からないから怖いっていう方が近い」
 
 和沙がうっわ、と小さく呟いた。自分でもまずいというか、おかしいというか、そういう自覚はあるんだけれど、それとは別に、まったく脳の違う部分で感じるものが、制御が利かないような感覚で……
 「腐っても教師なのに、しかも女の側から何かしてしまったら、もうどうしようもなくイタいじゃんか。男だったらいいかっていうと、そういうもんでもないけど、まだ多少はアリかな、と思うわけで――あ、もちろん在学中はダメだと思うけど――実際にそういう夫婦とかはいるわけだし、でも女教師が勢い余って男子生徒に何かしちゃったら、そりゃそういうAVとかはあるのかもしれないけどっていうか、ほとんどその世界だし、」
 「こら、おちつけ」
 和沙がこらえられないように笑い出して、私を制止した。
 「何テンパってるのよ〜」
 ゲラゲラと笑う。
 「だって……」
 「こんな海恵を見ることが出来る日が来るなんて、思わなかったなぁ」
 「……」
 顔が熱くなる。和沙にからかわれるほどに、自分の中の司への気持ちと言うものが形を取っていくようで、気持ちが悪い。
 いや、自分でも、多分分かってるんだ、ただ、それを認めると良くないって思ってる、それだけで。
 
 「認めたら、おしまいかな、って思ってるんだ」
 「うーん……」
 「五年も教師やってきて、こんなことになるとは思ってもなかったというか、想像したこともなかったというか。
 ――司だけ、なんだ」
 「面倒くさいわねぇ」
 「うん、面倒くさい」
 「海恵にそういう趣味がありました、っていう話なら、またビョーキだよ、で済む話なんだけど」
 「そうなんだよ。だから……面倒くさいし認めたくないし、認めたところで結局さっきみたいな話で、どうしようもないし」
 「八方塞がり?」
 「多分」
 これ以上、考えてもどうしようもなかった。最初から分かっていたことだけど。ただ、多分私は誰かに吐き出したかったんだ。そう思ったら和沙の存在をとても有難く思った。
 
 「少し、整理できたよ。やっぱりどうしようもないけど。心の中でずっと抱えて、司が卒業したら、だまってちょっとだけ泣いて終わりにする」
 私がそう言うと、和沙は少し悲しそうな目をした。
 「ごめん、私は何も言えないや」
 「うん、いいよ」
 目の前の、すっかり気の抜けたキールロワイヤルに手を伸ばす。揺するとわずかに泡が立った。みょうにべったりと甘くなったその味は、少し侘びしい気がした。

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